アゲイン・ザ・スターピーシーズ

 忘れることのない記憶。
 それは時に胸を締めつけ、時に私の傍で寄り添ってくれる。優しく、儚い、夢のような傷痕。
 時が経って私は変わることだろう。環境の変化に順応して、大人になっていくのだろう。でも、それでも決して離せないものがある。それは私にとって影でも幻想でもない大切なものだ。



 私が彼女に会ったときのことは、今でもはっきりと覚えている。あれはたしか暴力的な雨が地面を打ちつける六月のことだった。

 外では機嫌の悪そうな空から、次々と雨がざあざあと音を立てながら降り注いでいた。私は頬に手を突きながら横目でそれに目を向ける。三階にある教室からは若葉を茂らせた八重桜が綺麗に濡れそぼっているのが見えた。雨粒が目で追えないスピードと数の多さで青葉に落下していく。まるで上から下へすべてのものを屈服させるような傲慢さを持っているようだ。しかしどれだけ雨の攻撃を受けていても、青葉はしらっとしていて、いやむしろ却って瑞々しさを増しているようで、なんだかそれは眠気の覆う頭に羨ましく映り、私はうっすらとした嫉妬を覚えた。そしてすぐに心の奥底で矮小すぎる自己を嫌悪した気持ちがむくむくと立ちあがってきたのを感じ、私は深いためいきを吐いた。私はためいきを我慢しない。幸せが逃げるなんてことはない。ためいきを我慢したところで幸せはやってこないのだ。その代わりにやってくるのは、この世に対する無常観と、今すぐに屋上から飛び降りたくなる衝動と、そんなことすらできない自分へのうんざりとした諦観だけだからだ。そんなことを思っているうちにチャイムが鳴った。周りが織りなす喧騒を遮って、雨の飛沫だけが世界で唯一の音のように私の頭には響いていた。
 授業が始まってもそれは変わらなかった。全然、誰の声も頭には入ってこない。私には教室でのすべてがくだらなく、つまらないように映っていた。大学受験に向けて続ける勉強も、休み時間に交わされるクラスメイトのコミュニケーションも。梅雨に入ってからはどうにも気持ち的に沈んでることが特に多くなった気がする。なんでだろう。これが鬱って奴なんだろうか。でもこんなことで鬱とか言ってたら本当のウツビョー患者さんたちに申し訳ない気もする。
 幾度目かの休み時間に佐々木夏希が私の机にやってきた。
「どうしたの? 最近瑞香元気ないよね。なんか授業中も上の空って感じだし」
 私は適当に答えた。
「いやあ、別に。なんで空は青いのかについて考えてただけだよ」
 そう口にしてから今の空が一面灰色だということに気がついてなんだかおかしくなった。
「うわー、やっぱ瑞香、変わってるよね。もっとさ、簡単で明るいこと考えようよ」
 夏希はころころと笑った。見れば見るほど小顔で端正な顔だ。肩にかかった髪がゆらゆらと揺れる。彼女がする仕草はどれも彼女の魅力を引き立てているように見える。
「でもさ、私も考えちゃうよ、そういうこと。なんだか漠然で抽象的で、考えてもしょうがないことをさ」
「例えば、どんな?」
 私は、皆とはちょっと外れているこんな私にも無理なく合わせてくれる夏希が好きだった。夏希とは小学校の時からの付き合いになる。中学の時に仲良くなって、この高校にも一緒に願書を出した。
 夏希は少し考えて、言った。
「昨日のご飯はなぜハンバーグだったのかとか」
「は?」私は拍子抜けしてしまう。でもそんなところも夏希らしい。
「いやだからさ、なんでハンバーグが出たのかなあって。だってお刺身でもよかったわけじゃない? それに餃子でもよかったし、ミネストローネじゃなくてコーンスープだってよかったわけで。色々ある料理の中からなんでハンバーグが選ばれたのかなあって」
「それは夏希のお母さんがそう選んだからじゃない?」
「いや、そうなんだけどさ」
 夏希がもう一度にっこりと笑みを浮かべたところで、背後から別の女子たちの声が彼女を呼んだ。
「しおりぃー、放課後どっか行こうよー」
 夏希は振り返って軽く返事をすると、「瑞香、ごめん」と言って背を向けて、声のした女子グループの方へ駆けていった。
 その女子グループは私を冷ややかに一瞥した後、すぐに夏希に楽しげな表情を向けた。私がそれに気づかないように窓の桟へ視線を逸らすと、彼女たちはやがて私に声の届かない方へ行ってしまった。私の手の中に残るのはいつだってお馴染みの喪失感。夏希はクラスでもやはり人気者だった。容姿もいいし、気遣いもできる彼女は高校に入ってそれまでよりも一層もてはやされているようだった。それに彼女自身も最近はそれを自覚した振舞いをしているように見える。だからむしろ最近は彼女が私にかまってくれること自体が不思議なことのように思えてくるほどだ。私が一人ぼっちになるのも時間も問題かもしれない。私は半開きの手を机の下でギュッと握りしめた。今日の天気は雨だ。すべてをさらりと流してくれる雨じゃなくて、何もかもがじっとりと圧し掛かってくるような重い雨。

 私は学校が終わると逃げるようにして市の図書館へ向かった。学校に私の望むものは何一つとしてない。たったひとつの希望であった夏希すら最近は私の手から零れ落ちていくようで、悲しさが胸を痛めつけていくだけだった。私はもういっそのことすべてをこの手から離してしまいたい気に駆られることもあった。私が悪いのだろうか。私がもっと友好的な振舞いをして、他人に同調する振りをして、時々自分の主張を織り交ぜたりして上っ面だけで笑っていればいいのだろうか。そうすれば全部うまくいくのだろうか。水色の傘に打ちつける雨粒も遠くなって、そんなことを真剣に考え出してしまう。雨降る空にいくつもの風船が漂った。私について考えるといつも、その思考は私の頭にとどまることに飽きて、勝手にふわりと浮遊しだしてしまうのだ。私の手から離れていく。
 例えば、なんで私は学校に辛い思いをしてまで行かなくてはいけないのか。なぜ楽しそうな他人は私に軽蔑したような視線を送ってくるのか。そもそもなぜ私の人生は私が決めなくてはならないのか。なんで私は生きているのか、なんで私はこうやって……。
 こんなことに答えがないのは分かっていた。それに暫定的な答えならすでに与えられていることも。だけどそういったとりとめのないことを考えるのが私は好きだった。現状に直面した具体的な対策を検討するよりも、そういった途方もない、何の足しにもならないようなことを考える方が私の心を落ち着かせた。図書館に行くのもそういったことのためでもある。塾に行ってないから放課後は勉強しに行ってると親には言ってあるが、一人になりたいという思いが強い。学校にいるとどうしても周りの視線が気になった。知り合いがいるとどうしても意識しない内に気にしてしまうのだ。私の今の髪の触り方は変じゃなかったかとか、ブレザーの背に埃がついているのではないかとか、変にびくびくしてしまう。でも不思議なことにそれは知らない人しかいないところではあんまり気にならなかった。
 私は薄暗い空の下、歩道橋を渡り、小学校裏の公園の前を通って、図書館についた。自動ドアの前で傘を折り畳んで、くるくる振って水を弾き飛ばした。ここは古くからある、市で一つしかないなかなか立派な図書館で、休みの日は勉強する生徒たちや調べものをするサラリーマン風の人たちでいっぱいになる。でもそうは言っても平日はほとんど人気がなく、悠々と席を確保して隣の椅子に荷物を置くことさえできるはずだ。ほら、今日も。私は席に荷物を置くと、軽く埃の落ちたリノリウムの床を踏み歩き、お馴染みの棚まで行って、気になった背表紙があると指でするりとなぞる。読む本を選ぶ、この瞬間は格別だ。どんな物語に私は入ることができるのだろうか。私は本が好きだった。本は私をどこへでも連れて行ってくれる。読書に身を委ねていると私は現実を離れることができた。思索に耽る時以上に、力強く、思いがけなく、あっけなく遠いところに私を連れ出してくれる。
 私は二冊のハードカバーと一冊の文庫本を選び出して、席に戻った。布張りの背もたれが心地いい。そして持ってきたうちの一冊を手に取り、落ち着いた手でページをめくる。少しの間は周りの些細な音が耳に残ったりもするけれど、それもたちまちに消えていく。私の中にやんわりとした穏やかな空気が流れ込んでくるのだ。誰もいなくなった深夜の交差点のような爽快さが喉に流れ込む。ここは私しか知らない特別な場所だ。小学生の頃につくった秘密基地のような心地よさ。誰にも汚されない私だけの世界。

 そうして私は、平日は毎日のように高校での授業が終わると図書館に通う日々を続けていた。二年生だからまだ受験だって先の話で、それだから私は表面上の目的である勉強もそこそこにして、物語に没頭することができた。それに宿題程度しかやらない勉強だって成績の低下を実感することはなかった。
 それは特に雨の強い日だった。今朝の天気予報は一週間雨模様を示していて、そのピークに当たる日だった。
私はいつものように図書館の席に座って、ゆっくりとした時を過ごした。遠く微かに雨が地面を打ちつける音が響き、その他に大きな音はなかった。あるとすれば隅に置かれた空調設備がたまにゴゴゴと音を立てて除湿をしているくらいだ。天候のせいもあるのか新たに入ってくる人も少なく、専らは机に向かう人、本棚の前で吟味するように本を選んでいる人たちの、ページを繰るパサリという音が場を包みこんでいる。私は紙面に目を落とす。そして現在の環境を遮断し、次第にページの文字列の向こう側に落ちていく。文字と文字の間。その隙間に。ゆっくりと海底に沈みこんでいくイメージが頭に浮かぶ。粘性をもった水が落ちていく私を静かに受けとめ、穏やかに底へ引き下ろしてくれる。自分とは違った主人公がいて、思いもつかない運命的で衝撃的な出遭いと別れがある、現実とは違った魅力的な世界へ、私は落ちる――。それはとても心地よい快楽だ。見たこともない景色が私の周りを満たして躍る。月の光や、花の囁きがあちこちで反響する。夢を見ているように、時間の感覚も次第に霞む。自分は一つの身体にとどまることをやめて分散し、虚構の世界に遍在するようになって、その様々な悲しみを、喜びを、驚きを私の心に浸透させていった。
時計の針がどれだけ進んだことだろう。私はやがて興奮冷め止まぬ間に、読んでいたハードカバーの最後のページを繰った。それは海外の有名なファンタジー小説で、上下二巻の上巻を読み終えたところだった。
 私は早く続きが読みたくなったので、席を立ちそそくさと本棚の方へ向かった。心はまだ物語の世界から抜けきっておらず、床を踏む足の裏の感触もどこかおぼつかなかった。私の中にまだ夢の世界が広がっている感覚だ。一秒でも長く虚飾の世界に浸っていたい私にとって、その感覚は愛おしいものだった。でも一歩足を進めるたびに、虚飾の世界は砂時計の砂のようにするすると私から抜けていってしまう。私の中でその名残が抜けきらないままに続きを読み始めたい衝動が疼く。
私は本棚の前に立って、期待の視線で上巻のあった場所に目を向けた。一刻も早く下巻を取らねばならなかった。しかし、
(……あれ?)
上巻が一冊置いてあり、その横に私も今読んだ本を差し挟んだのだが、その横――下巻があるべきスペースは空になっていた。私はきょろきょろと辺りを見回した。
あれ、いつもはこんなことないのに。私の肩はゆるゆると落ちていった。この図書館は蔵書数が多いから、普通に下巻もあるものだと思っていた。目の前で魚を取り逃したように、なんだかすぐには諦めきれなかった。私は身体の虚飾要素が抜けきってしまうことに怯えるように、念を入れて目を光らせた。……が、やっぱり下巻は誰かに借りられているようだった。落胆が身体に深く沁み込んでいくのが分かった。仕方ないから席に戻ろうと振り返った瞬間、いきなり私の鼻先に人影が現れ、私は驚いた。反射的に半歩後ずさり、右の踵が本棚にこつんと触れた。
それは私と同じくらいの年に見える制服姿の女子だった。私の知らない制服。目が合うとすぐにその女子は口を開いた。
「あ、あの……、これ、探してた?」
涼やかな声だった。長い髪がふわりと揺れる。
 彼女がおずおずと差し出したのは、私が今まさに探していた下巻だった。私の心に一陣の風が吹き、一気に救われた感じがした。でもすぐに身体中にぴりりと緊張が走って、なんだか口籠ってしまい、ぶんぶんと頭を振るだけになってしまった。普段口を開かないと喋れなくなるというのは本当らしい。高校二年生にもなりながら、ろくに会話もできない自分が急に恥ずかしくなった。
 しかしそれにも関わらず、その女の子は人懐っこい笑みでにっこりと微笑んだ。
「良かった。じゃあ、どうぞ」
「あ、ありがとう、……ございます」
 彼女の振舞いに少し気持ちが和らいだが、やはりうまい返事は出来なかった。私がそれを受け取って、いそいそと席に戻ろうとすると、彼女が穏やかな口調で声をかけた。
「あなた、毎日ここに来ているわよね。少しだけ、お話しない?」
 遠くの雨音は途切れることなく続いていた。彼女の声は輪郭が溶けるような不思議な印象を持っていた。いや声だけではなく彼女全体から世間からずれた魅力的な匂いがした。私はそのどことなく現実離れした雰囲気にあてられて、内心うっとりしていた。それはまだ私の中で物語が続いているような錯覚を植えつけた。そうして気がつくと私の足は彼女に誘われるがままに談話室へと向かっていたのである。

 彼女の名前は久川千秋といった。私と同じ高校二年生で、近くの高校に通っているという。そして彼女も私と同じく、学校の授業が終わるとすぐに図書館に来ているのだそうだ。
後ろめたさの欠片を微塵も感じさせずに「だってその方が楽しいじゃない?」と笑う彼女は素敵だった。
 初めはおどおどしていた私だったけれど、彼女の優しい表情と、柔らかく包み込むような口調のお陰で、少しずつ緊張を和らげることが出来ていった。そうすると私にとって彼女と話すのは非常に楽しい時間だった。久しぶりに会話に意志の糸が織り込まれていく快楽を感じた気分だった。「誰かと話す」ということは私の中では最早、重い鎖で繋がれるような、窮屈で、重苦しいイメージが定着していたのに、久川千秋はその熱で鉄を溶かし、自由に私を連れ出してくれた。
「岩瀬さんは本が好きなんだね」
 久川さんの問いかけにはどんな答えでも受けとめてくれるような包容力が感じられた。
「うん」私はついさっき手渡された本をパラパラとめくった。
「私ってなんだか、人と話すのが上手くないんだけど、本を読むとお話自身が私に語りかけてくれるようで、心が和らぐ感じがするんだ」
私と久川さんの他に談話室の中に人はいなかった。休日は小さな子どもが積木なんかで遊んでいたと思うが、平日は空いているのかもしれない。談話室は一面にクリーム色のカーペットが敷かれ、隅には小さな本棚と、それと今私たちが座っているのと同じソファーがいくつか置いてある。図書館内でゆったり会話ができるスペースだ。東側の壁一面は窓ガラスになっており、玄関横の駐車場が見えた。人気は相変わらず少なかったが、水たまりは絶えず賑やかに打ちつけられていた。
「久川さんは?」
 私は外の様子を眺めた後、同じ方を見ていた彼女に訊いた。彼女は考える素振りをして、ひとことひとことを紡いだ。
「そうだね。……なんていうかな、私が重ね塗りされていくような感じがするんだよね。ちっぽけな自分の影が厚くなっていくっていうか。物語が私と混ざり合って一つになってくる感覚があるんだよね。登場人物も世界観も、空気さえもね。だから、本を読み終わった後は今までの景色が全然違って見えたりして。それがすごく好きなんだ」
 久川さんの言うことは直接胸に響いてきた。それはいつも私が胸に仕舞いこんでいることとほとんど同じだったからだ。むしろ私が言葉にできないようなことまで代わりに言ってくれているようで、なんだか私が喋っている気持ちになった。

 その日を境に、図書館に行くのが一層楽しみになった。どうせ学校に行っても夏希しか話す相手はいないし、その夏希ですら最近はクラスの女子グループに入って楽しそうにしている。私はもう学校に期待を抱かなくなっていた。最早、学校での私の居場所が消えていくことも実感できたが、それに対してどう思うこともなくなった。周りとのコミュニケーションを取ろうとしない者は爪弾きにされる。思ってみれば浅ましいことだ。人間は誰でも自由に振舞っていいはずなのに、どうしても内輪をつくりたがる。それがたとえ偽りと欺瞞で塗り固められた内実空虚なものであったとしても。おそらく渦中にいると目も耳も知らないうちに汚されて、自分たちが何をやってるか分からなくなっているのだろう。それに気づいているのはおそらくそこから一人抜け出た私だけなのだ。そう思うと私は学校で一人でも全然平気だったし、むしろそれが誇らしくも思えた。
教室では刃物が刺すような視線を背中に感じ、張り巡らされた会話の網の糸口は私からは遠くたゆたって、伸ばした手にその先が触れることもない。以前の私であれば、自己嫌悪に駆られながらも偽りの輪に手を伸ばし、それに届かなくても諦めきれずにいただろう。傷つきながらもその先の光を求めていただろう。味方がいないのは怖いものなんだ。しかし今の私の心が不安に揺さぶられることはなかった。昔みたいに一々自分を責める気持ちにもならない。私は私を現実に繋ぎとめてくれる碇を見つけたのだ。一筋の眩い光明を。実際にそれを信じていれば、学校にいる間、心を殺しておくことなど簡単なことだった。どれだけつらいことでも、その後に我慢した分を埋め合わせるだけの、いやそれ以上の対価が保障されていれば、決して出来ないことではない。人間というものは敬虔な生き物なのだ。
 見上げる空は依然として誰かの悲しみが詰まったように薄暗く、陰鬱そうにしていたけれど、私にとっては逆に都合がよかった。空が暗いほど、雨が激しいほど、久川さん――千秋と話すときの談話室が外界とは切り離された小部屋に思えて胸を昂らせた。それこそ物語の世界にいつしか入り込んでいるかのように。
彼女といるとき、私は幸福に包まれていた。学校で口を噤み、気持ちを抑えている分、彼女には全てを打ち明け、心地よい会話をした。
 千秋は私に色んな話をしてくれた。彼女の声は美しく、私の心に響いてくるような透き通った質感を持っていた。それは夏に轟く蝉の鳴き声とは違い、土に染み込む雨の滴りのように、静かに、でも確かに私に語りかけてきた。私の現実は彼女に移っていっていた。
「瑞香は好きな人はいるの?」
千秋はガラス越しの雨音に耳を澄ませながら訊いた。今日もしとしとと雨は降り続けていた。梅雨明けにはもう少しかかるそうだ。
「うーん、いないなあ」
「そうなの? それは残念」
「どうして」
 窓のそばにいると室内で除湿機が稼働しているにもかかわらず、強い湿気が鼻をついた。
「だって好きな人がいると、世界が変わるじゃない」
「それってそんなにすごいこと?」
 私は本当に好きな人なんていたことがなかった。というのも、周りの人々は私にとっていつ危害になるか分からない存在でしかなく、怯える対象ではあれ親密さを感じることは滅多になかったからだ。もし親密さを感じることがあったとしても、それはその関係の維持への強迫観念によって苦痛へとすぐに変化してしまうのだ。ただ、私はそれをわざわざ口に出すことはなかった。彼女の、遠く幻想郷を眺めるような目つきや何かに耽溺したような表情を見ると、そんな醒めたことを言う気分はたちまちに消えてしまうのだ。私はこういうとき、彼女の横顔を見てうっとりした気分に浸るのが好きだった。
「好きな人がいるっていいものなんだよ。自分の中に『あれ、好きかも』とか思った時点で、それはもう一気に世界が奇蹟の海になってしまうの。その波がいたるところでうねってあなたに襲いかかってくる。そうするとね、喜びも悲しみもそれまでよりもずっと色鮮やかに立ち現われてくるようになるの。喜びは一瞬一瞬が目に焼きつくほどきらびやかに躍動する波飛沫となってあなたの前に現れるし、悲しみはこの身を切り裂いてしまいたくなるような失意の波浪となってあなたを飲み込むわ」
 彼女の声はその素晴らしさを充分に含んでいたが、私はこれについてばかりはいまいち理解しかねていた。それは私が一度としてそういったことを体感したことがなかったからかもしれなかった。彼女の言う奇蹟は私にはイメージすることすらままならなかった。
 それを彼女も見かねたのかもしれない。
「あなたには時間があるのだから必死に恋愛をした方が良いわ。そしたらもっと自由に、手首の錠を外したように生きられるはず」
「それは千秋だって同じことでしょう」
 私が言うと、彼女は窓を見つめていた顔をこちらに向けた。
「いえ、時間はいつでも不平等だから。原理は見る者によってその色を変えるものなんだよ」
 彼女は時々、哲学的なことを言った。普通であれば笑っちゃうようなそんなことも彼女が言うと不思議と妙にしっくりきた。だからこのときもなんとなく変に納得はしてしまうのだった。

 彼女と話して次第に気づいたことと言えば、私の身体にべたべた貼りついた垢が浮かんでよく目につくようになったことだ。
私は普段悪意を周りに感じさせないように本心を押し殺しているし、あらゆる人々がそうだと思っていた。みんな自分しか覗かない心の内では私利私欲にまみれた薄汚い気持ちを丁寧に育んでいるものだと。だから私は初めのころ、彼女が倫理的な装いをしているだけなのかとひそかに疑っていた時期があった。それほどまでに彼女は、私が人間につきものだと思っていた薄汚さから疎遠であるように見えたのだ。しかし彼女との会話を重ねるごとに、彼女への経験値を高めるごとにそれは誤りだと言うことに気づいてきた。彼女はどこまでも純粋で清純な心の持ち主だった。自己中心的な行為や言動も、どこか薄布に包まれたようで他人を傷つけるような鋭さは持ち合わせていなかった。またそのことは彼女の信条にも重なっているようだった。私が弱気になっているときは優しく励ましてくれたが、私が学校や家庭での不満を漏らすと彼女は少し諌めるような物言いをした。私はそれでも彼女の両翼の羽が一枚一枚ふわりと剥がれていってその身が顕わになっていくのに愉しみを感じていた。彼女の本心が私の前に不純物がない一糸まとわぬ姿で現れてくるのだ。儚く、弱々しい、生まれたばかりの姿で。私はそれに非常にと言っていいほどに希望を感じていた。



 町外れのトンネルから流れてきたドロドロした煙が薄まったような雲々はその隙間を広げていき、夏が到来した。そして爽快な空の下で現実は熾烈さを増していった。
 表現を和らげて言えば、風当たりが強くなったなと感じることが多くなった。
大人がどう思ってるかなんて知らないけれど、教室は平穏ではない。窓ガラスが割れたり、人殺しが出なくたって、その中で渦巻いているのは未熟な人格が織りなす奇怪で醜い、行き場を失った暴力性なのだ。どこに飛んでくるかは分からない。その矢先が自分にかすった程度のことだ。ようやくか、と思った。正直クラスでの私の立ち位置は浮いていて、いつ切っ先が私に向いてもおかしくはなかったのである。まずもって彼らや彼女たちは私に無視を決め込んだみたいだった。今までは拙くとも挨拶をしたり、たまには係りの仕事上誰かと話さねばならないことがあったのだが、しかしクラスメイト達は私が近づくと露骨に遠ざかり、離れた場所から指差しつきの嘲笑とともに明らかに見下す視線を寄越すだけになった。触れたくないと言わんばかりの、汚いものを見るような視線。私は学校では完全に一人きりで過ごすようになった。夏希ですら周りの空気を感じ取ったのか、憐れむような視線を向けながらも、近づくことはしなくなった。とはいえ私はあまり動揺してはいなかった。別にそんなのありふれていることだ。大したことではないし、いつかは彼らも飽きるだろう。それに、私以外にだってそういう扱いを受ける人を見たことはあるし、いわばババ抜きでジョーカーのカードが回ってくるような、そんなどうしようもないことなのだ。むしろ動揺や落胆はなかったということが私には大きかった。風当たりが強くなったことは、自分が元々教室の人たちに心を開いていなかったことをやや歪んだ形ではあれ肯定したということになる。ほら見ろ、やっぱり私の言った通りじゃないか、奴らは不意に他人を裏切って楽しむような人間たちなんだ、付き合わなくて正解だった、と強がりに似た優越感がじんわり胸の内に広まっていた。
学校ではあくまで平常を装っていたが、高校生にもなって無視かよ、という思いもあった。私を支えるのは久川千秋の存在だった。私は学校にいるときは専ら彼女のことを考えることで、気を紛らわせ精神を安定させることに成功していたのだ。でもこのとき一番困惑し、思い苦しんでいたのは私ではなかったのだと思う。それは他でもなく、それまで私に近づいていた佐々木夏希だ。
「ねえ、もう分かってるでしょう?」
 彼女は久しぶりに一緒になった帰り道で私に言った。
 夏希は私を心配しているようだった。しかし以前よりもはっきりと私は彼女に距離を感じていた。
「何が?」
「何がって……」
 喉の奥に言葉を詰まらせたように夏希は下を向いた。
 私は夏希の意図を見越し、それに若干のうんざりを感じていた。結局夏希も自分の身が大事だし、私のことなんて実は一ミリだって考えてはいないんだ。こんなのは小学校からの付き合いの子がクラスに除け者にされていて、自分はそれに対して何もしないという卑小な良心の呵責によるものでしかない。本当に私のことを思ってくれているのなら、こんな帰り道じゃなくてクラスで堂々と話しかければいいんだ。そしたら私の異様な一人ポジションという立ち位置は回避される。しかし夏希はそれを選ばなかった。選ばなかったし、これからも選ばないのだろう。もうこうなることは分かっていたのだ。夏希はクラスの派手な女子グループにいるのが楽しそうだし、そんなカースト上位から私のような底辺に落ちるのが怖くて仕方がないのだ。初めはその挙動に傷ついていたりもしたけれど、今はもう大丈夫だ。夏希は夏希、私じゃないんだ。彼女は彼女なりの倫理があって、私には私の倫理がある。けれどそれらは決して交わらない。それだけのことで、それ以上でもそれ以下でもない。
「結局、夏希は自分が一番大事なんでしょう?」
 私が言うと、彼女は眉間に皺を寄せ、一層表情を曇らせた。
「え? 何でそんなこと言うの……。私たち、友達じゃん」
 言葉っていうのは本当に便利だ。口に出してみれば、それがさも事実であるかのような印象を与える。私には反論する気さえ起きてこなかった。
 歩道橋の脚元で私は立ち止まった。夏希の家と私の家は通りをもっと真っ直ぐ行った同方向にあるが、私は歩道橋を渡って交差点を右に曲がらないといけない。三車線の大通りから立ち上る灰色の排気ガスにまみれながら、私は夏希に向き直った。
「夏希はさ、私に嘘ついてるよね」
「嘘? 何で?」よく見れば夏希も鋭く瞳を光らせて、真剣な眼差しをしていた。
 そんなに自分の思い通りにならないことが嫌なのだろうか。プイライドの高い夏希のことだ。屈辱と感じているのかもしれない。
「もっと自分に正直にいればいいのに。見てるこっちが苦しいよ」
 私は吐き捨てるように言った。
「私、瑞香が何言ってるか分かんない。……分かんないよ。最近は、瑞香が何を思って何を考えているのかも分かんない」
 ――だから、そんなこと知ってどうすんだって。
 私は自分でも分かるほどに、湧きあがる苛々を抑えられなくなりそうになった。
「お互い様だね。夏希が何でそんな無駄なことをするのかだって、私には分かんないから」
 私は呆然と立ち尽くす夏希に背を向けて、歩道橋を足早に上った。歩道橋の上では一度も後ろを振り返らなかった。渡り終わってから元いた場所に目をやると、夏希の姿はもうどこにもなかった。

 その夜。私は自室のベッドの上で壁に背中を預けて三角座りをしていた。純白のレースカーテンが頭の右の方にちょこんと触れている。頭に浮かぶはとりとめのないこと、私は正しいことをしてるのかどうか、私が思い込んでることは間違いなのではないか、本当のことなんているまで経っても知ることはできないのではないか、……考えたってどうしようもないことだ、そんなことは知っている。いや考える振りをしてるだけで、実際はそのアイデアの外側の膜を指でなぞっているだけなのかもしれない。勇気なんてもってないんだ。信じられるものなんていつだってあったことはない。でも、今それに近いとすれば……、
「千秋しか……」
 私はカーテンをくぐり、窓を開けた。生ぬるいが外気が頬に触れるのを感じ、目を上げると濃紺の空に浮かんだ綺麗な三日月が見えた。その周りに散らばった星たちも。名前も知らない夜の神様はいつでも私を見ていてくれる。私はそれらを眺めることで、ぐらぐらした感情が次第に落ち着きを取り戻していくのを感じていた。私は昔からそうだった。どこまでも広がる暗闇に光る月や星を見るのが好きなのだ。遥か遠くに浮かぶそれらを眺めていると、私も実のところ自由な身である心地がして、どこまでも行ける気がしてくるのだった。細々した人間関係なんか取っ払って、身体の調子からも、すぐ暴走する精神なんかからも解き放たれて。私はそれらを空から見下ろして笑ってやるのだ。そんなもの、哀れなほどに小さくて、何の価値もないんだって笑い飛ばしてやるんだ。それで、私はどこまでだって飛んでいく。空の果て、銀河の隅、名前もない国、人のいないところへ、私は飛ぶ。人間なんて置き去りにして、星たちの希望を受け取って。どこまでも。どこまでだって。



 日照りが熱く、体力も気力も奪われる。私は鉛筆を片手に目を凝らして黒板に見入る。そうして先日、千秋の言ったことを思い出す。

 千秋は図書館横のベンチで缶コーヒーを口元から下ろした。私は持つのはオレンジジュース。閉館後のちょっとした二人の休憩だ。千秋は飲み終えた缶を足元に置くと、スカートのポケットに手を入れ、そこから茶色くて小さな四角形のものを取り出した。
「何それ」
「何だと思う?」彼女は訊き返した。
「中にオルゴールが入ってる、とか?」
 私は彼女の手のそれをまじまじと眺めながら、言った。それはくっきりとした木目がついた小さめの木箱だった。地はクリーム色に近く、木目は濃い茶。彼女はゆるゆると首を横に振った。
「ううん。それにこれには鍵がかかってて、今の私じゃ開けられないんだ」
 よく見ると、確かにその木箱には前面に金の大きな鍵穴がつけられていた。
「え? 違う人のってこと?」
「そんなこともないんだけどね」
 状況がつかめない私に彼女は指針を投げた。
「とにかくね、私はこの箱の鍵を探してるんだよね。それでさ、瑞香にもそれを手伝って欲しいんだ」
 私はオレンジジュースの最後の一口を飲み干した。
「まあいいけど、どこにあるか見当はついてんの?」
「いや、それが……」彼女はふざけ混じりの困り顔を見せた。
「……分かんないんだよね」
「全然?」
 彼女は頷いた。
「そう、全然」

 あ、間違えた。ノートの文字を消しゴムで擦る。そんなことで私の頭でいっぱいだった。だから板書も書き損じる。仕方のないことだ。それにさっきから教壇に立つ先生が黒板に向くたびに、背中に当たる消しゴムの小さな欠片も気にはしない。それだって仕方のないことだ。仕方がなくて、私にとってはどうでもいいこと。上履きがない両足だって。いつの間にかなくなった国語の教科書だって。仕方のない、どうでもいいこと。

 私は以前よりもずっと魂の抜けたように学校をやり過ごし、その分を千秋とのやり取りに費やした。七月になってからは図書館に行くのはそれまでの半分くらいになり、もう半分は彼女の鍵探しを一緒にすることになった。しかし、彼女は本当にあてはないらしく、探す気がどこまであるのかも怪しかった。まあ、そんなわけで私と千秋は彼女の提案で思いつく限りの目ぼしい場所に行ってみることにした。
「でも、見つかるのかな」
「うーん、まあ頑張れば神様だって分かってくれるんじゃないかな」
 彼女は夕陽に照らされる山々に目をやり、手すりにもたれかかりながら言った。その日は町の外れの、丘の上にある高台、湖桃崎展望台に来ているのだった。休日でもないので私たちの他に人はいなかった。
「私、こういう景色、好きなんだあ」
 千秋は片足をぶらつかせて木を模したフェンスを甘く蹴った。
 夕焼けが景色を染める。陽の沈む反対側ではだだっ広い田園やその向こうにぽつぽつある住宅や、私の学校なんかも一緒くたに同色になって染め上げられ、忍びよる闇に飲み込まれていく。私もこういった風景は好きだったし、吹き込む風が気持ちよくていい気分だった。
 ……だけど、
「千秋、これでいいの?」
「ん?」
「いやほら鍵だよ」
「んー、だってここにはないみたいだし」
「まあそりゃそうだけどさ」
 彼女の言うことは正論だった。だけど、そんなことを言ったら鍵なんてどこに行ったって見つからない気がするんだけど……。まあ、とはいうもののそんな気がかりも、千秋の楽しそうな横顔を見ているとどこかに行ってしまうのだった。私は彼女の意図をつかみ損ねていたけれど、この感覚が気持ちのいいものだということは事実だった。
「私、ここに一回は来てみたかったんだよねー」
「あれ、そうなの? 遠足でみんな来るものだと思ってたけれど」
 私の町に楽しめる場所は少ない。ほとんどが畑か田んぼで、周りは山々に囲まれている。だからこそ、ここに――確かに町の中心地からは少し距離があるけれど、一度も来たことがないというのは驚きだった。
「何でだろうね。忘れちゃった」
「ふうん」
 二つの白いシャツが、折り目のついた紺のスカートが、風にはためく。山に隠れてしまった陽の微かなにおいが余韻を辺りに立ちこめて、二人の影を覆っていた。
「次はどこ行く?」彼女は楽しげに私に言った。
「探しに、でしょ」
 私が笑いながら訊くと、彼女もにっこりと笑って「そうだね」と言った。

 私と千秋は毎日鍵を探し歩くようになった。木々がざわめく公園に行って鳩に餌をやり、参拝する者が誰もいないようなさびれたお社で可笑しな顔の狛犬を見て、戦前の名残のある廃病院に行っては怖さに身を寄せ合った。
 学校生活は日に日にキツくなっていったが、千秋を次にどこへ行こうか考えたらそんなのはどうだっていいことだった。ノートの端に今度一緒に行きたい場所や記憶に佇む彼女の横顔をスケッチしてみたりして教室の時計が進むのを待った。
「今度は海に行こうよ」
「えっ、海?」
「そう」彼女は遠くを見つめて言った。
「海に行きたい」
 私はクスッと吹きだした。
「どうしたの?」不思議がる彼女に、私は人差し指で目の端をなぞりながら答えた。
「千秋って、行きたい場所、たくさんあるんだね。それも鍵を探すため?」
「もちろん。そうだよ、決まってるでしょ」
 彼女のぱっちりとした目は輝いて、穏やかそうな外見とは裏腹の、その奥に潜む旺盛な活力を窺わせた。

 電車に二時間ほど揺られ、駅に降りると、もう目の前には地上のすべてを洗い流すような太陽と、海開き前の砂浜が広がっていた。私も海は小さい頃に片手で数えるくらいしか来たことがなかったので、懐かしくも新鮮な光景にちょっと胸が高まった。
「わー!」
 一面に広がる白砂、その向こうにきらめく波が見えるや否や、彼女はパタパタと駆けだした。長い髪を潮風になびかせ、白いシャツを揺らめかせて。私は一歩遅れてそのすぐ後を追いかける。彼女は休日にもかかわらずに制服を着ていた。ただそれは今日だけの話ではなく、千秋はいつだってそうだった。でもそれは彼女なりのこだわりや理由があるんだろうから、私が特に気にかけることではないのだろう。私はと言えば、ベージュのスカートに薄めの白っぽいロングTシャツを着ていた。けれど、はしゃぐ彼女を見ていると海にはセーラー服の方が似合うのかもしれないと思ってしまうのだった。彼女は早々と靴と靴下を渚に脱ぎ置いて、陽に照らされてはじける波と戯れていた。
 私がやっと近くまで行くと彼女は言った。
「海って気持ちいいね! 感動した」
 私も靴を脱いで波の間に足を滑り込ませると、汗ばんでいた気持ちが一気に清涼感に押し流された。
「それって随分やっすい感動だよ。でもほんと、気持ちいいねえ」
 足元に丸くなった石や貝殻が触れ、時折跳ねた飛沫が頬に当たった。
 私たちがいるのは岩場の隙間の小さな砂浜で、見渡す限りに人気はなかった。まあ、駅だって無人駅だしそもそも近隣に人もほとんど住んでいないのだから無理もない話だ。ひとしきり波間ではしゃいだ後、私たちは靴を手に持って湿った砂の上を歩いた。私たちの後ろには今まで私たちが歩いた跡がくっきり残っては波に流されていった。
 岩場のすぐ横からは津波対策のためかテトラポッドがずっと遠くまで続いていた。私たちはいくらか歩いた後、千秋が数あるうちの一つのテトラポッドに上ったので、私もそれに続いて隣に腰を下ろした。テトラポッドの真っ白な表面はざらざらとして、陽の熱を吸収していてわずかに温かかった。
 彼女は鼻歌を歌って、眩しそうに日光に手を翳した。座った位置から、下の方にフジツボがへばりついているのが見えた。
 二人が黙ると、静かに満ちては引いてを繰り返す波の音がただ聞こえていた。沖にぽつんと見える漁船から呑気な汽笛が高々と鳴った。
「楽しいこととか、嬉しいこととかって、直接手に入ることってできないものだと思ってた」
「……ん、どういうこと?」
 私は彼女に訊き返した。彼女は彼方にたゆたう水平線から視線を外さずに頬に右手を当てた。それは千秋が考えるときの癖だった。
「目の前にあるものと記憶にしまわれたものって違うよね」
「うん」私は頷いた。
「私ってさ、目の前にあるものから得られるものってあんまり信じられなかったんだよね。楽しかったことがあったとして、私が手を伸ばして触れようとしても、その途端に、指が掠った瞬間に、そのところから次々と砂みたいにさらさらと崩れていってしまって、手のひらの指と指の隙間から零れ落ちてしまう心地がしてたの。近づく実感はあっても距離がなくなることはない。それでいてそいつは何事もなかった顔をして、また私の先に蜃気楼のように立っている。いつだって伸ばした手の先は届かないんだって。それで空しさっていうか、虚ろさっていうかさ、そんなのばっかが心の底に積もっていくもんなんだって、そんな風に思ってたんだ。そんな感じで、いつでも経っても楽しさには辿りつけないってね」
 私は思った。いつまでもゴールが来ることのないやるせなさを。ずっと交代の来ない鬼ごっこを。そして、その感覚を受け続ける身体の過酷さを。
 でもね、と彼女は言った。
「でも、瑞香と一緒にいるうちに、そんなことないって気がついてきたんだ。届くとか届かないとかじゃないって分かったの。幸せだとか、嬉しさだとか、希望だとか、きらめきだとかっていうのは、いつの間にか知らないうちに私の傍にある……、というより私の内側にあるものなんだって」
 そう言うと、うんうんと彼女は一人でに頷いた。その様子を見ていると、私にもなんだか快い思いが込み上げてくるのだった。
「こんな毎日がいつまでも続けばいいよね」
 私たちが来た岩場の方から大きなカモメが翼をぴんと張って、海上へと飛びたっていった。
 真っ青な空と底の知れない海はどこまでも遠く続いていて、その壮大さと開放感は、どこかに投げ捨て損ねて手元に残ったいびつな形の私をも見逃してくれる優しさを持ち合わせているようだった。
 鍵はいつまでも見つからなかった。



 私は母親と二人で暮らしている。父は都会へ働きに出て二年ほど前から単身赴任中だ。しかしそれでも生活は豊かではなく、母親も事務の仕事に就いている。最近は会社の人員が足りてないらしく、ほとんど毎日夜中になるまで帰っては来ない日々が続いている。
 その日も、私が千秋と別れて帰ってくると、家に明かりはついてなくて暗いままだった。ちょっと心細くもあるけれど、遅い帰宅を咎められない分、気は軽い。リビングの電気をつけ、冷蔵庫を開けると朝に母が作ってくれたオムライスがラップに包まれて置かれていた。それを電子レンジに放り込んで、冷蔵庫にあったトマトとレタスで適当に付け合わせのサラダをつくる。テーブルの上には、母が片づけ忘れただろう文庫本や何だかが積んであり、私はそれらを本棚に戻そうとした。その間には一冊、薄いフォトファイルが挟まれていた。電子レンジがまだ動いているのもあって、私は何の気もなしに、その端が黄ばんだファイルを捲って開いた。そこに入っていたのはどうやら母の中高時代の写真のようだった。そこにある多くには、表情に今はもう窺い知れない幼さを残した母の姿があった。丸っきり誰か分からない人しか載っていないものもあったが、これは多分母の友人なのだろう。
――あっ。
 私はある一枚に目をとめた。小柄な女子とそれよりは高い百五十五センチくらいの女子が並んでピースをよこしている。高校一年といったところか。彼女たちの後ろにある車庫を見るに、いる場所はおそらく祖母の家の庭だろう。身長の高い方がうちの母親だ。しかし私の目を引いたのはもう一人の女子だった。二人の制服は同じものではなかった。母はブレザーで、もう一方はセーラー服だった。それも胸につけたリボンは赤と紺のストライプ柄。それは千秋と同じ服装だったのだ。しかし私はこの辺りでセーラー服の学校というのをあまり知らなかった。まだ私は千秋の通う学校を知らなかった。ただその前に私がそういうことに興味がなく、自分が通ってる学校以外のことは全くと言っていいほどに知らないということもあった。今更訊くのは憚られる、とはいえ今更無知でもいたくはなかった。
 丁度いい。私は今度母に訊いてみようと思い、古ぼけたページをパタンと閉じた。

 千秋が前に海で、「楽しさとかっていうのは手を伸ばした先にあるんじゃなくて気がついたら、自分の内側にある」なんて言っていたのを思い出す。あのときはなんとなくそうかもしれないと思ってしまったけれど、でも日々を過ごしていくとそれもどうなんだろうと思えてしまうのだった。仕方ないと言い聞かせたところでつらいことはつらい。まるで当たり前のことのように嫌がらせは続いていた。この間は水泳の授業の際に下着がなくなったし、机の上やまだ取り上げられてない教科書には毎日のように悪戯書きは増えていく。一番どうしようもないのは、この状況の理由が分からないということだった。初めの頃は、理由がないことだって全然際立ったことではないと思ってもいたのだが、思ってた以上に解決する見込みがない問題というのはたちが悪かった。結局私も他人事のようにしか考えられていなかったということだ。集団はストレスの捌け口を求め、それを措定することで逆に集団内の安定を図る。それは非常に論理的で効率的な構造だ。集団のための犠牲。平安のためのわずかな損失。それゆえに、状況は変えにくいし変わりにくい。学校での度重なるストレスのせいか生理不順も伴って、体力も精神もそろそろ限界に差し掛かっている気がした。おそらく理由が分からないまま謝ったとして、例えばただ闇雲に教室の床に額を擦りつけてみたところで、問題は解決せず、余計におもしろがられ玩具にされ、その役に嵌り込んでいくだけだろう。それじゃあ何も変わらない。
 私は学校の廊下を歩きながらそんなことを思っていた。
 五時限目が始まったこともあって、廊下に人影はなかった。出会うとすればいつも遅れてくる私のクラスの授業担任だが、警戒して擦れ違うことのない道取りをした。授業前にクラスを抜けだすなんて初めのことだった。休み時間が終わり本鈴が鳴ったにも関わらず、思わず足がクラスの後方のドアに向いていた。私の前に立っていた三人の女子が「おい」と怒鳴るのも無視を決め込んで、私は廊下に抜け出した。教室に入ろうとした人影が擦れ違いざま、驚いたように小声で「瑞香?」と呼んだ。夏希だった。私は少しも振り返らずに階段を目指した。
 頭の中は段々と落ち着いて、まともに物事を考えられるくらいにはなっていた。教室から出るときにはそんな余裕はなかったのだ。だから夏希に対する反応への後悔も芽を出した。しかしそれは分からない。どうしたらいいか分からない。甘えた先が仕掛けられた罠という実例を経った今見たばかりなのだ。だけど、甘えられずに生きていくなんて、誰にも頼らずに生きていくことなんて、私には途方もないことのように思えるんだ。私は弱い、弱すぎる。弱いくせに何にも我慢ができないんだ。挑発にすぐ乗ってしまう性質なんて捨ててしまいたい。さっき教室であの女子らが紙に書かれた文章を朗読して、その挙げ句私の目の前で破ったことだって、すべて許してあげればよかったんだ。もう諦めた方が楽なのかもしれない。その紙が私がテスト対策のために夏希に貸してあげたノートだったとしても。彼女らが読んだ箇所が消し忘れた千秋への思いだったとしたところで。それを嘲笑いながらびりびり引き裂いているのを目にしたところで。
 重い扉を開けて、私は屋上に出た。夏休みが近いこともあって、外の空気はすっかり見間違えることもないほどに、夏だ。空も透き通るように晴れてはいたが、東の方から黒い雲が来ているのが見えた。私は屋上の中心近くに設けられたフェンス沿いのベンチに座って空を見た。もちろんのこと、月だって星だって私の目には映らなかった。もう私には何も楽しめない心地がした。いや千秋に会えば多少なりとも回復しないことはないだろう。けれどそれでも学校には来なければいけないし、私には今までのように楽しいこととつらいこととを完全に割り切って生活を送っていくことはむずかしいように思えた。そんなことをしても楽しいことはつらいことに侵食されていく。おそらく自分の内側に見出した楽しさも、更なる内側のつらさから喰い破られてしまうのではないだろうか。ぼろぼろに崩れ去り、ざらざらとした砂となって本質を失ってしまうのではないか。
「じゃあどうしたらいいって言うんだ」
 私は両手を組んで頭の後ろにあて、どこにともなく欠伸をした。
 空の遠くには飛行機が低いうなり声を上げながら飛んでいた。私も空に散りばめられた希望たちを思った。けれどそれはやはり見えずに、無情な時だけが私を取り巻いていた。

 もう気力も空っぽになり、荷物も明日でいいやと思って校庭に降りて帰ろうとすると、うまい具合に他の生徒も帰る時刻になっていた。私は足早に校門へ向かった。何にも考えてはいなくて、ただただぼうっとしていた。
 だから肩を叩かれたときは異様にびっくりしてしまった。振り返ると私の鞄を持った夏希がいた。私は当たり前のように夏希と一緒に帰った。疲れていた。
 そのためか自然と口をついて「なんで私ってこんなことになってんの」という言葉が出てきた。
 夏希は一瞬怪訝な顔をした。
「分からないの?」
「分からないよ」
「本当に?」
「本当に」
 私たちは歩道橋を通り過ぎて、夏希はためいきを吐いた。空には暗雲が立ち込めていた。雨の臭いが鼻をつく。
 彼女は言った。
「最初に誰かが言いだして、それから色んな人が言いだした。今ではたくさんの人が言ってる。悪い状況の理由はそれだと思う」
「夏希ももう私のことが嫌い?」
「最近の瑞香は苦手だったけど、それさえ直してくれたら仲良くしたいよ」
「それって?」
「ひとりごと」
「ひとりごと?」
「うん」夏希は頷いた。

 私が家に着く頃には、ぽつぽつと雨が降り出していた。それらはやがて強さを増した。一旦降りだすと途切れの来ない夕立だった。その雨は他のあらゆる音をも消し去るようで、私は家の窓から降りしきるそれらを眺めた。夜が更けるまで眺めていた。



 私はどうやらひとりごとを話していたらしい。そんな癖が不気味で、その反発として嫌がらせが始まったらしい。ただ、元々他人との会話を好んでする方でもなかったことが、余計な誤解を増幅させてしまったきらいもあるという。今までは瑞香自身が動かなかったから周りの流れにも逆らえないけれど、瑞香が変わろうとさえしてくれれば私だって手を差し出したいとは思ってる。そう夏希は言っていた。

 私は親からも聞いていた。
 ある少女の話。
 むかしむかし、母が高校に通っていた頃は、今なんかよりもずっとずっと気風が乱れ、校内が荒れていたものだった。集団で喧嘩をしあい、それを止める教師と生徒の間でまた争いが起こる、そんな感じだったらしい。ただそれはこの地域が特に荒れていたというわけではなく、それらの争いは今からしてみれば秩序や規制が敷かれる過程で必然的に起こること、つまり時代がそういう時代だったから、といった言葉で片付けられる類のものなのだそうだ。けれど、それでも心の底から争いのない穏やかな平和をこいねがう者は確かにいた。その少女はひたすらにみんなが仲良く過ごす日常を願っていた。そんなあるとき、避けられようもない大きな抗争が他校と起こりそうになった。誰もが神経をとがらせて、男は暴力的に士気を高め、大体の女は怖々と身を寄せ合った。少女はみんなが好きだったし、その少女を嫌う者なんて誰一人としていなかった。だけど少女がその抗争を止められるとも誰も考えてはいなかった。
 抗争の前日、彼女は校内で首を吊って死んだ。
 降ろされ横にされた少女は首についた痕が生々しくも、その様はまるで眠っているかのように見えたという。普段は虚弱で走ることもままならなかった彼女が、最上階から階段の落差と手すりの低さを利用して自ら命を絶ったのだった。階段には彼女がいつも抱えていた松葉杖が丁寧に綴られた手紙と共に置かれていたという。その手紙には丁寧な文字で、どうか争いをしないでください、との文字が書かれていた。文章が続く。
「争いや対立はいずれ犠牲を伴います。
 それは誰も望んだことのない犠牲です。
 それはみんなの心に雨を降らせて、憎しみや悲しみをただただ増やしてしまうことでしょう。
 だから、その前に。
 私は憎しみのために身を捧げるのではありません。
 平和のために」
 当時、校内を仕切っていたリーダー格の男は、それを知ってひどく悲しんだ。彼だけではない、誰もが涙をぼろぼろ流して泣き濡れた。彼らは自由を求めて闘っていたのであって、身近なものが死ぬことは微塵も望んでいなかったのだ。そのリーダー格の男は抗争を中止し、結局他校との和解にまで漕ぎつけることができた。その話は当時の町中に広まり、多くの中高生の心に訴えかけ、少女を悼む声は広がっていった。そして時代が経るに従って、彼女が求めた平和を求める声も、ノイズも巻き込みつつではあったが、大きくなっていったのだった。
 あの写真に写ってた制服、母の隣の女性が来ていたセーラー服の学校はもうとっくに廃校になっていて、その校舎も近年取り壊されたのだという。

 私は果たして、どういった行動に移したらいいのか悩んだ。最早、何が良くて何が悪いのかなんて判断がつくとは思えなかった。しかし、私は現状をどうにかしなければいけなかった。私は窓から空を眺めた。静かな夜に思いを託した。星たちがたくさんきらめいていた。月もクレーターが見えるほどにはっきりと浮かんで輝いていた。
 千秋は楽しさが簡単に手に入らない様子を砂にたとえた。私の場合、それは星だ。星たちの希望は、簡単には私には届かない。その砂たちは、――星の欠片たちは、――ありとあらゆる希望たちは、私たちの両手の指の隙間から、ひっきりなしに零れては落ちて、そしていつしか消えていく。でも私は零れていくからといって、手に残った温もりに縋るだけじゃあダメなんだと思う。零れたものは拾っていかなくちゃいけないんだ。いつだって触れたそばから、きらめきたちは零れてく。でも私は、零れ落ちゆくそれらに向かって、それでも、どうか、と願いながら祈りながら、闇雲でもいいから、死に物狂いに、一生懸命、力一杯腕を差し出していかなければいけないんだ。それがどれだけ難しく、大変で厳しくても、眩しげに光る星の欠片たちを拾おうとして、諦めきれずに手を伸ばしていく。触れられなくてももう一度。手から零れてももう一回。十回でも百回でも諦めることなく挑戦していく。それが、それだけが、私に残された、果敢で前を向く唯一の方法なのではないだろうか。
 生温かな偽りに頼ってばかりいないで、凍てつくきらめきに触れていく。そのざらざらした表面を。

「久川千秋って名前を出したら、私の母だって覚えてたよ」
 私が母から聞いた話を言い終えると、千秋はしばらく無表情のままに立ち竦んでいた。
 私たちはいつかのように湖桃崎展望台に立っていた。
 黒い鳥が彼女の向こう、夕陽射す空を数羽通り過ぎる。ぶらんと垂れていた彼女の両手は微かにふるえていた。時間が止まる感覚がした。もしかしたらそれは時間が逆流して一気に流れ込んできたためのロスタイムだったのかもしれない。そして、際限ない時間を分断するように、ぽとりと両腕の間を滴が落っこちた。彼女は遠い目をしながらただ涙を流していた。私が彼女を見ると、彼女は不意に頬をつりあげた。しかしそれは一気に湧き上がってきた悲しみに押し潰されてすぐに歪んだ。ぽたぽたと地面に染みができていった。千秋はやや俯き気味になって口を開いた。
「そうだった。私はあの時に死んだのよね」
 彼女は目元を拭おうともしなかったが、その声が酷く滲んでいたことが彼女の感情の昂りをはっきりと表していた。涙は夕陽に照らされて美しく輝いては散っていた。
「私は、誰のことも恨みたくなかったの。みんなの気持ちが痛いほど分かっていたから。誰も悪くなんかなかったんだよ? だけどこのままじゃ争いは大きくなるだけで、犠牲者が出ない限り収まりそうにもなかった」
――それで他人が犠牲になる前に自分が、って。
 私が何も言っても陳腐に聞こえてしまう気がした。私なんかが触れるには彼女の心は高潔すぎた。けれど私はそれでも声を出した。ここで何も言えなければ、私がここにいる意味なんてこれっぽっちもない。私の声もふるえていた。
「千秋……、でもそれはよくないやり方だよ。あなたは死ぬべきじゃなかった。だから……、だからどこにもいけずにここにいたんだ」
 彼女は薄く眼を瞑って、ようやくゆっくりと手で顔を覆った。
「誰も間違ってないんだとしたら、千秋がこんなことにはなるわけないでしょ。あなたは――」
 私の声を遮って千秋は泣き崩れた。
「でも、私は――」
 そうするしかなかった、と彼女は何度も首を振った。町中に聞こえるような大きな声で泣いた。
 彼女は生前からずっと恐ろしいほどに純真だったのだろう。だから誰の敵にもなれなかった。強者の辛苦も弱者の哀情も痛いほどに分かったのだろう。しかし華奢な彼女には対立を調停するだけの力はなかった。だから自ら進んで人身御供となったのだ。
私はそんな選択は間違っていると思う。それに私ならそんなことはしない。けれど、だからなんだというのだろう。だからといって彼女の選択が間違いであることになるのだろうか。命をかけた彼女の願いは無意味なものだったのだろうか。そんなわけはない。それに『私ならばしない』ということで誤魔化されてるのは『私ではできない』ことだ。ただならぬ勇気ではないのだ。単純な身投げではない。そこにあるのは眩いばかりの強い意志と、血の滲むような決断だ。それを見落としてはいけない。私は無力だ。広大な海を目の前にした一匹の虫のように。私が救いたいと思ったところで、気を確かにしなければ逆に救われてしまいそうだった。
彼女はぽろぽろと身体に似合わない大粒の涙を溢していたが、それも次第に収まってきた。そしてゴシゴシと袖で目を擦った。私の顔を見つめた千秋は涙の跡を頬に滲ませながら、無理矢理に軽やかな頬笑みをつくっていた。壊れそうな儚さが辛うじて繋ぎとめられていた。
「あ、千秋」
「……え?」
「その手」
「あっ」
 私の方が先に気づいたらしかった。日差しに反射していたからか、彼女の瞳が濡れていたかは分からない。
 彼女の右手にはいつしか銀色の鍵が握られていた。
「私ね、瑞香と会えて良かったよ。本当に。こんな楽しかった毎日、生まれて初めてだったかも」
 頬に浮かぶ涙の跡がてかてかと照り返している。
「思い出したわ、全部。私は、何もかも忘れてたみたい。生きてた時の私が身体が弱かったことも。それに中学校の時に足が悪くなって上手く歩くこともままならなくなったことも。
それでね、元々本を読むのは好きだったんだけど、それしかできなくなってしまったんだ。最初はそれでもいいって思ってたんだけど、でもそしたら胸の奥から、友達と星を見に行ったりお祭りに行ったり、遊びに行きたいって感情が思い出したように波になって押し寄せてきたの。それはとても耐えがたかった。だけど私は友達に迷惑をかけるのも嫌だったから、なんだかだんだんと皆との壁も感じるようになってきて……いや私が悪かったのかな」
 彼女は自嘲気味に笑った。その笑いは、彼女が誰かのために身を投げたことの裏に、私が想像する以上の、複雑でまどろっこしい理由や、こんがらがって収拾のつかなくなった感情があったことを仄めかした。彼女だってしっかりと毎日毎日生きていたのだ。何かに悩んで、それでもつらくて、嬉しいこともあって、生きてきたのだ。私は彼女の存在を今まで以上に、それまで一度もなかったほどに、すぐ身近に感じていた。
「とにかくね、私のしたいことができて本当に嬉しかったわ。瑞香、あなただから良かったんだと思う。しかもこうして元気な身体で会えて。生きてる時だったらこうはいかなかったかもしれない」
「そんなこと、……言わないでよ。千秋、私はいつだってあなたの味方になるに決まってる」
「そうだね、ありがとう」
 太陽はその存在感を増しながら、徐々に山々の稜線の彼方にその影を落としていった。
「それじゃあ」彼女はポケットから小さな木箱を取りだした。アンティーク調の木目柄はここからでもはっきり確認できる。
「幸せなうちにね」と言いながら千秋は木箱の鍵穴に銀の鍵を差し込み、くるりとまわした。カチャリという音が聞こえてずっと開かなかった木箱がようやく開いた。
 煙? 木箱からは半透明の煙のような気体が放出され、千秋の身体をするすると包み込んだ。それも束の間の出来事で、すぐ煙は見えなくなった。そして、彼女が持つ木箱も鍵もなくなっていた。
 千秋の身体は夕陽に透けていた。
彼女は優しい声で言った。
「もうお別れだね」
「……いなくなっちゃうの?」
「さよならって悲しいことじゃないんだよ」
 彼女は寂しそうに地面の自分の足元を見つめた。しかし、もう彼女の影はそこにはなかった。
 私はなんて言ったらいいか分からなくなった。色んな思いが瞬間瞬間に頭の中を駆け巡っては、サイレンばりの喧騒と共に消滅と生成を繰り返していた。でも、頭のどこかでこんな予感はしていたんだ。けれど彼女がいなくなってしまったら、私は実際どうしたらいいんだろう。これから先、本当にちゃんと生きていけるのだろうか。永遠に一人ぼっちかもしれない。つらいことしかないかもしれない。しかしそんなことをここで言うべきではない。今は自己嫌悪なんてしてる場合じゃないんだ。そうして生まれては消えていく泡沫の中で、一つの色濃い思いが私の前に姿を見せた。
私は決心して、彼女の手をとると、まだ触れられることが嬉しさとなって脳に伝わった。この感触もじきに消えてしまうのだろうと思うと胸が張り裂けそうになった。私はじっと終わりを待つことができるほど律儀ではなかった。
「さあ、行こう!」
 私は目を丸くしている千秋の左手を取って、丘を引き返すようにして走りだした。
「えっ、ちょっと、どうするの!」
 驚く彼女を連れて私は走った。千秋の質問にもういちいち答えてられない。時間がないのだ。おそらく日が沈む前には、千秋の身体は空気中に分解されるように次第に霞んで見えなくなってしまうだろう。それまでに!
 私たちは息を切らして木々を抜け、丘を一気に駆け降りた。困惑気味だった千秋も途中からは吹っ切れたように楽しげな表情を浮かべていた。整備された道路まで出ると、私の自転車が主人の帰りを待ち焦がれていたと言わんばかりに寂しげに佇んでいた。私が荷台に彼女を促すと、彼女はなんだかよく分からないけどちょっと興奮してるといった顔つきで素直に腰を置いた。もうその見慣れたセーラー服の向こう側に電信柱がはっきり見えるほど彼女は空気に溶け込んでいた。
「じゃあ行っくよー!」
私は明るい声を上げて、精一杯ペダルを漕いだ。それが何かの終わりを告げることだとしても、精一杯にペダルを漕いだ。
 田園風景の中を走る。私は最後にまた彼女を喜ばせたかった。胡桃崎展望台、鶴見神社、白紅沢公園、どこも彼女は行ったことがなかった。名所が多くない私の町だ。向かう方向は自然と決まる。
 自転車を飛ばすと、町の外れを走っているのにもかかわらず夕焼けに染まる景色がやけに過去の記憶を呼び覚ました。遠足で寄った個人農園や交差点わきの駄菓子屋、人が住んでると噂の廃工場。別にどれもいい思い出ではない。けれど今に限っては自転車の後ろに座ってる千秋に語りかけたいほどに、それらがかけがえのないものに見えていた。私は前を見ながら息を切らして一声だけ千秋に言った。
「千秋、いる?」
「うん」
 そこに、いる。
 私の腰にまわされた手に強く力が込められたのを感じた。
 私の代わりに千秋は後ろで楽しそうに私に語りかけた。私はペダルを踏むので一生懸命だったから答えられなかったけれど、それでも彼女は嬉しそうに「あっちにたくさんトンボが飛んでる」とか「今の車、瑞香の家のに似てたね」とか「夏休みなのにチャイムが聞こえる」とか、何でもないようなことを喋った。でも、何の変哲もないことが途端に色めきたってくるのが不思議だった。彼女の周りではいつだって素晴らしい景色が広がっていた。
荷台が軽くなっていく。
 前だけを睨んで私は考える。千秋のお陰で景色が違く見えていたこと。千秋がいたから今まで生きれたこと。私の拠り所はもう千秋しかいなかったとさえ思えたこと。でも、それは甘えだ。自分が強くなれないから頼れる者を大事にするなんて卑怯者のすることに他ならない。私は自分の醜い部分にお別れを告げる。つらくても、いらない私を捨てていくのだ。ひとつひとつ。
 廃工場の裏を抜けて、ぽつぽつとした民家を過ぎて、ようやく私たちは着いた。
 目の前には大きな湖が口を開けていた。その水面には、少し距離のある向こう岸に立つ鬱蒼とした森に沈み込もうとしている夕陽が、もう一つの太陽が潜っているかのように鮮明に映し出されている。眩く淡い光景が、来る闇を撫で、湖の周辺一帯を幽玄で幻想的な気配に包んでいる。それは見るものを精気で吸い込むような圧倒さを持っていた。
「わぁ……」というためいきが背後から私の首筋にかかった。そして一粒の温かい涙が私の首に当たって、背中をつるりと滑った。千秋は鼓動が伝わるほどに身体を寄せて、私をそのまま抱きしめた。
「ここはね、私のとっておきの場所なの」
 私は振り返らず、後ろにいる千秋に聞こえるように語った。
「中学校のときなんかはこの畔で、一人で泣いてたりしてたんだ。今思うとつまんないことかもしれないけれど、そのときはどれひとつとっても、私には重大なことだった。それでね、ここで泣いていると傍には誰もいないのに誰かが私のことを励ましてくれる気がするんだ。ゆっくりと穏やかに背中をさすってくれる感じ。分かるかな、朝霧のようにぼんやりと優しく包み込んでくれるの。そうするとね、次もまた傷つくかもしれないけれど、それでも頑張ってみてもいいかなって気がしてくるんだよ。私を支えてくれたとこだからさ、千秋にも見せたかったんだ。他の人を連れてきたこともないんだよ。ほら、綺麗でしょ?」
 私に絡む腕はもうほとんど見えなかった。私は手の甲で目を擦った。
「……なんだか駄目だね、何にでも頼っちゃって私――」
 涙が溢れて止まらなかった。なんだ、これじゃあ、あの時から変わってないじゃないか。でも声が滲んでも、喉に涙が詰まっても私は語りかけた。背後の気配がすっかり消えていることにも気づいていたけれど、でもまだ言い足りないことはたくさんあった。この場所は私を支えてくれていたんだけど、千秋が来てから私はここに来なくなったんだよ、千秋はそれほど私にとって大きい存在だったんだって。ああ、なんでもっと早く言わなかったんだろう。今になって泣き濡れてどうするんだ。分かっていながらも振り返った先には、薄暗い闇が空気を侵食しているばかりで誰もいなかった。

 私は近くの大きな岩に背中を預け、目を瞑っていた。
夕陽が埋もれてから夜が来るのはあっという間だ。森の奥、梟だか山鳩だかが気怠そうに鳴くのが聞こえた。夏の生温かい風が水面を揺らし、私の頬を触ると、涙の痕がちょっぴりヒリヒリした。
落ちてくる夜は私の心をゆっくりと溶かしていき、空気に私が混ざり込んだ。私は息を吸い込んで、右手をぎゅっと握る。夜の空気は私に優しい。私は私、もう一人だ。悲しさもつらさも背負っていかなくちゃいけない。けれど私の胸にはあの優しく強い意志が、彼女の目が、声がしっかりと焼きついている。大丈夫、大丈夫だ。私はやれる、やっていける。何度でも。何度だって。握る拳に力を込める。空虚だけではない感じが、握った手のひらに滲んでいった。
(了)