プラネタリウムノート

あいにくの雨の日だ。それなのにうっかり星空を見たくなってしまった。

プラネタリウム

一度、脳裏にその言葉が浮かんでしまったらそれがひどくすばらしい考えのように思えて、今この瞬間から動き出さないと後悔するような、そんな焦燥感にかられた。
どうしてこんな田舎にあるプラネタリウムがつぶれないで残っているのか、少し不思議だった。プラネタリウムに行かなくても、天然の星座をいつでも眺めることができる。もちろん、天の川だって。
もしかしたら僕みたいな人が他にも結構いるのかも、なんて考えると自然と笑みがこぼれた。
雨の日に眺める星空もきっと素敵なものだろう。

駅まで10分、電車に揺られて20分、そこからさらに徒歩で20分。
電車は1時間に2本くらいだから、しっかり計算してからでないと何もないプラットフォームで寒空の下待たされるはめになる。
こんな田舎町では時刻表が欠かせない。

「次は...11時28分か」
今が11時を少し過ぎたくらい。あと10分で準備をして家を出ればちょうどいい。
とは言っても、コートを羽織るくらいしかやることがない。あ、そうだ。どうせ思いつきの小旅行。ケータイを置いて行こう。どうせ鳴らない。あとは、お財布と、コートのポケットにお気に入りの文庫を一冊忍ばせる。

11時15分。
さあ、出かけよう。今日は楽しくなりそうだ。

手首

しらけちまったなぁと私はひとりごちる。金曜日の夜八時。なぜ私は部屋で独り、缶ビールを二缶開けているのだろう。ほんとう、しらけちゃうよなぁ。独りになってからひとりごちが増えた。だって話し相手いないから。仕方ないじゃない。とはいえどこか出掛ける気も起きなくて会社の帰り道になんとなくコンビニに寄って適当な缶ビール(普段私はビールを飲まない)をカゴに何本か放り込んで帰ってきた。私はお酒を飲むときに何も食べないからおつまみはいらない。

世の中は愛やら勇気に溢れている(私の見る限り)のにどうして私はこんなになあなあでなんとなく生きてるんだろうな。もっとしゃっきりして誰かを好きになったり嫌いになったり、性欲にかられて一夜の情事に興じてみたりすればいいのに。でも無理。めんどくさいもの。めんどくさいっていうと彼はいっつもいやそうな顔したなぁ。なつかしいなぁ。
ちょっと前に私は順当に恋をして順当に愛されて順当に身体を開け渡した。底の抜けたバケツにひたすら水を注いでいるような感じだった。あーあって思った。なんにも残らないや。ってたまに私は手首を切った。

右手にカッター(良く切れる黒刃のやつとか)を握って厭世を思いながら切り込みをいれる、みたいなやつじゃなくて、化粧水乳液をお風呂上がりに肌に塗込むみたいな日常的な所作だった。でもお肌のケアと違うのは、ちょっと痛みを伴って赤いヤツがたくさん流れるところかな。今でも手首の傷は残っていて、私はたまにその傷を撫でる。ちょっと安心する。私は生きているなぁ。ここにいるなぁ。

彼がかなしそうな手つきで私の左手首に触れるとき、私は少し満たされた。底の抜けたバケツのことを忘れることが出来た。私が流した赤いヤツが彼の体温に置換されてるのかなとかゆるくふわっとした女性のようなことを考えた。だから手首を切り続けたのかな。分からないな。自分のことなのに自分が一番分からないなぁ。

脈を切っちゃうと死んじゃうらしいからいつも慎重にカッターの刃を当ててた。切り込みをいれるときはいつもこわかった。自分の身体を痛めつけるのってやっぱりこわいものなんだね。生存本能なのかな。切り込みが入るとじわっと染みてきて赤いヤツは床にぽたぽたと落ちていく。それで、ちょっと痛くて、ちょっと泣く。床をタオルで拭いて洗面所で軽く洗って洗濯機に入れる。色がうつるといやだから洋服とかとは分けて洗う。洗い終わったら乾燥機にかける。さすがに赤い染みだらけのタオルを日常的に外には干せないもの。それくらいのモラルは私にだってあるよ。

しばらくして彼とは別れた。彼が私に「手首を切るような女とは一緒にいられない」言った時はちょっとびっくりした。あ、私はこの人のために手首を切っていたんだなぁ。なぜかはよく分からないけれど。彼は私に手首を切ってほしいと思っていたのになぁ、なんてその時は思った。私っていかれてるのかな。

私は三缶目のビールを飲もうと冷蔵庫を開けた。
ふいに脇にあったトマトケチャップに気が付いてくすりと笑みがこぼれた。
彼は元気にしているかな、もう「手首を切るような女」に引っ掛かっちゃだめだよ。

煎じるあめ。

 わたしは黄色の電車をなにとはなしにいつもと違う駅でおりる。駅は大通りの架線のちょうど真下にあって下り方向のホームと改札がつながっている。とても小さい駅舎は三角形の屋根を被っていてその上に中心が屋根の天辺に二等分されるような白い鉄の棒で結ばれた電灯がある。屋根の天辺の下にもひとつ電灯がある。あるいは向かって左端にも。駅舎の右端にはスロープがあって見た目の割には整備されている。人は時間の割にはまばらである。

 駅を出て細い路地に入るとこの路地は急な坂道になっている。坂を下りきった突き当りには古びた建物がありその上には線路が通っている。空の下側が段々と赤みを帯びてきていて坂道は暗くなっている。坂の長さはそれなりにあるはずだけれども電柱は一本しかない。小さな電灯がうっすらと道を照らしている。照らされている部分は道路の他の部分とは異なっていて灰色のコンクリートで覆われている。その手前には丸の文様が入ったコンクリートの箇所もある。坂道の両端にはマンションがいくつも立っている。坂が若干左曲がりなので目の斜め下に白いマンションが見えるけれど中心線を取ると線対称であるし1階2階3階のそれぞれが玄関以外は同じ形をしている。
 
 ふと見つけた喫茶店に入る。わたしはいつもどおりカフェモカを頼むことにする。小腹も空いたのでフルーツクグロフも併せて。白くておもちゃのようなおぼんの上には白い紙ナプキンが引かれていてそのうえに白いカップがのっている。カップには並々とカフェモカが注がれていて表面はとても細かい泡で覆われている。その泡の上にはチョコレイトで描かれた格子模様が見える。茶色い甘い線が丸いカップの縦横を何回も走っている。小さい白い皿の上には中心がへこんで焼き色のついたフルーツクグロフがある。銀色のスプーンととても細長く包装されたスティックシュガーも載せられている。スティックシュガーの包装は赤と白にきっぱりと分かれている。接合の部分は両端共にやや古ぼけた赤色をしている。中心からわずかに右側にずれるようにして面積の大きい部分が赤色で小さい部分が白色をしている。境目にはお店のロゴが印刷されている。テーブルも同様に古ぼけた赤色をしている。

 壁にはいくつか絵画がかかっている。一枚目はおそらく『ミシェル・レリスの肖像』であるが奇妙なことに一部だけが拡大されている。肖像は鼻の中心線から左半分が上は額が少しはいる程度下は上唇が入らない程度に抜き取られている。顔は薄黒く一見黒人のようである。二枚目は薄霧がかかった都市を描いたもの。右上部から左下部へ向かって川が流れているが川は背景と同じオレンジベージュをしている。右上部には橋がかかっている。橋はいくつかのアーチからできていて3つ目のアーチで切れている。右下部に見える此岸は黒々とした木々で覆われている。左上部の彼岸には同じような形の建築物が並んでいる。建物それぞれの輪郭は描かれず四角い窓が黒々とした四角形で描かれている。屋根も高低差だけをもった一連なりの黒い線で描かれている。この建物も河川同様のオレンジベージュ。三枚目は白地に黄色でただ一文字「W」と描かれている。この「W」は黒抜きがされていて右下にずれるように影が付けられている。見方によっては右側の「V」に左側の「V」が接合されているといえる。左側の「V」の右側部分は完全には描かれてはなくその三分の二ほどで右側の「V」に吸収されている。四枚目は少女漫画調に一人の少女が描かれている。この少女は頭の左側に白い花にピンクのリボンをつけたコサージュをしている。白い半袖のカットソーと純白のふわふわとしたスカートを着ている。タイツと靴は片足ごとに変わっていて右足は白紺水色ピンクの太いボーダーに白の靴を左足は白灰色ピンクの細いボーダーに黒い靴を履いている。両手にはまっしろい手袋をはめていて高く上げた右手には青くて細いリボンを左手には青いコンパクトミラーを持っている。少女はオレンジの三つ編みで左手の手鏡を覗いている。少女はたくさんの贈り物の箱と紙袋と原色のはっきりとした動物に囲まれている。少女の右側には箱がいくつも積み重ねられていて一番上の箱から灰色とピンク色の猫が顔をのぞかせている。左側には丸い箱が重なっていて一番上には黄色のふくろうがいる。右側手前にはピンク色の紙袋があり中には黒い猫が入っている。その後ろにはショッキングピンクで青い首輪をした鹿が伏せている。左側手前には白い半透明のリボンで封をされた薄桃色の四角い箱がありその向こう側に同じ薄桃色をしたうさぎが手前には小さな黒いリスがいる。リスの鼻先には黄色い小さな箱がありその中にはピンクの宝石をつけた指輪がしまわれているのが7割開いた蓋から見れる。

 もう夜も深まっている。気づくまで長らくかかっている。

ゆるふわ的断章

ゆるふわしたのは今日もいく。
生命体はぷわぷわ浮かぶ。
浮かんで街中を駆け巡る。
君が優雅にスプーンをまわすカフェの午後を、灰色に染まった校舎の中を、鮮やかな緑の林の隙間を、誰かが座った電車の座席を、光の影射す夕暮れの丘を、どこでも彼はぷわぷわ浮かぶ。

どこでも浮かんで通り過ぎる。
誰にも見られず、浮かんで過ぎる。
ぷわぷわしたのは、彼の本性。
誰かが指示した、彼の特性。
どこにもいるし、どこにもいない。

毛玉のように転がって、埃のように空気に浮かぶ。人々の全部を知っている。ずっと前から知っている。生きていたから知っている。彼は今まで生きていた。

彼は今まで生きていた。彼は今まで生きてきた。

誰にも知られない小さな姿と、
誰にも聞こえない微かな声で。

人波の間をすり抜けながら、繰り返される足蹴に耐えて、彼は今まで生きてきた。彼は今でも生きている。

生命体は愛される。
存在自体は愛される。
彼は誰かに愛される。
君は確かに愛された。
愛されることが人生の意義。
愛されることが生きるということ。


彼女は毎日が楽しくなっている。
人々に愛されているからだ。
世界は彼女のために生まれてきた。宇宙は彼女のためにある。
世界の楽しみ方を彼女は知っているし、それを誇りに思っているからだ。
ナチュラルメイクな瞳の奥は、世界をファンシーに映しだす。
彼女にかかれば、ほら、足元からすぐ変わっていく。殺伐界が碧のエデンに染まっていく。薔薇の棘だってグミチョコレート。包丁だってマジックステッキ。世界は彼女に優しくて、彼女は毎日飽きもしない。飽きもしないで生きている。楽しいことで満ちている。


彼女は今でも愛される。
瞳は何も映さない。
彼は今でも生きている。
瞳は何も映さない。


ゆるふわしたのは今日もいく。

浮かんで時々ぽよと鳴く。

(おわり)

 それはもうどうしようもなかったと彼が言う。僕はどうしてと尋ねる。だってさ、彼女ったらいろんな物を俺めがけて放ってくるだぜ。たまったもんじゃないよ。仕舞には包丁を取り出して俺に突きつけるんだ。彼は反笑いでまくしたてるように言った。寝ていないのだろうか、目の下にくまがうっすらとみえる。僕は、そうかぁ。それは大変だったね。と他人事のように(実際他人事なのだけれど)できるだけ穏やかに喋る。手つかずだったコーヒーを啜る。そういえば僕あんまりコーヒーって好きじゃないんだよな。

 それで、どうしたの。その後。と僕は続ける。彼もコーヒーを啜った。これ雑味があるな、とかなんとか呟いて話を始めた。どうするもなにも彼女が気が済むまで放られたものをよけて逃げ回るだけだよ。どうしようもないだろう。どうしようもない、僕は彼の口ぶりを真似してつぶやく。彼女はどうして駆り立てられるのだろう。何を彼にぶつけようとしているのか。言葉にならない心のうちをたとえばマグカップだとか灰皿(彼は煙草を吸う)にこめて彼にぶつけるのだろうか。ぶつけてどうするのだろう。彼はどうやってそれを受け止めるのだろう。どうしたってマグカップはマグカップで灰皿は灰皿で、そこに何をこめても彼は物理的な重さ以外感じることができないのではないだろうか。問題はそんなところにはないのかもしれない。僕は生真面目に考えすぎている。

 僕がぼうっと考えていると、なぁ、お前は彼女とかとケンカしないの。と彼が僕に尋ねる。とかとってなんだ。彼女以外の女性とケンカするような状況があるのか、と言おうとして黙る。僕はあまり女性とうまく会話できない。すごく遠い星から来たんじゃないかと思うくらい遠い存在に思えてしまう。しないんじゃないかなぁと僕は曖昧に答える。誰かに言いたいことって案外少ない。と僕は思う。言葉とか思いみたいなものはぼんやりしているうちに体になじんでしまうから気にならなくなる。みんなはそれを無関心と言うけれど僕はあまりそれを気にしていない。誰が何をどう思ってもそれは「自由」ってやつだと思うから。

 僕はふいに昔付き合っていた女性の髪の毛の指通りのよさを思い出した。その女性はとてもまっすぐだった。正直だった。彼女は怒ると世紀末のような声をあげて眼をとがらせてたくさん涙を流した。僕はただ黙って頷いていた。たまにそうだね、とか、ごめんね、とかいう言葉を呟いた。彼女に聞こえていたかは分からない。彼女はまっすぐだ。なめらかでたおやかだ。彼の彼女もそんな人なのだろうか。指通りのよい髪を纏ってまっすぐに正直に自分の思いの丈を彼にぶつけているのか。僕はうらやましく思った。彼女たちのそういった溢れるものをおさえず正直に生きる姿はとても美しい。どうしようもなく美しい。

 彼の携帯電話が鳴った。彼は眉をひそめた。でも少し嬉しそうに口角をゆるませる。それを見て、僕は伝票を持って席を立った。

ある特別な金曜日の夜に  三題噺 テーマ『嘔吐 座椅子 鰻』


終電一つ前、そんな電車の乗客はまばらで、僕が降りた駅ではそれよりもまばらな数人しか降りてこない。改札を抜けて、吐く息が白くなるのを見つめながら駅前通りを過ぎて、十分も歩けば人の姿はまばらどころか、見かけることも無くなっていた。
あと五分ほど歩けば僕が暮らすワンルームのアパートへと到着する。街の景色は繁華街の雑居ビル群から徐々にマンションやアパートが増えてきて、この辺りが繁華街と住宅街の境界線だという事を示しているようだった。
大学入学から慣れ親しんだ街を離れ、会社の部署異動でこの街へと引っ越してきて三ヶ月が経過した。この街の適度に騒がしくて便利で、適度に落ち着いた雰囲気はわりと気に入っていた。十字路を左へと曲がり、また一つ住宅街の雰囲気へと近づいていく。ほどなくして左手に青を基調とした大手チェーンのコンビニが見えてきた。マンションの一階部分がテナントになっていて、そこにはコンビニと、飲食店が数件入っていた。ぼくの住むアパートから最寄りのコンビニという事もあり、わりと利用する機会が多い。隣の飲食店にはまだ入った事は無かった。
コンビニからかすかにクリスマスソングが漏れてきていて、明るく照らされた店内に自然と視線がむいた。客の姿はなく、店員もレジにはいない。無人のコンビニとかすかに漏れてくる明るいクリスマスソングという組み合わせは少し面白いなと思いながら視線をコンビニから歩いている方向へと戻した。すると視線の先に、駅前通り以来となる人影を目にして、自然と足がとまっていた。目の前の人影を凝視して思わず「あっ」と小さく声が出てしまう。

年の瀬が迫った金曜日の深夜、人影もない道端で、地面にへたれこんで嘔吐しているアパートのお隣さんである女性を見かけてしまった時、どういう行動を取るのが正しいのだろうか。

ジングルベルジングルベル鈴が鳴る今日は楽しいクリスマス。
頭の中で楽しげな歌が無限リピートしていて、うまく考えがまとまらなかった。




「大丈夫ですか?これ水です。新品だから気にしないで使って下さい」
「へあ?」
へたれこんでいる女性の横で野球のキャッチャーのような体勢をとってそう話しかけた。素っ頓狂な返事と酸っぱい吐瀉物特有の匂いをとりあえずスルーしながら僕は続けた。
「立てますか?こっちに植え込みがありますから、まずは口をゆすいで、水飲んで下さい。楽になりますから」
褒められた行為では無いけれど、今の状況では仕方ないだろう。水はそこのコンビニで買ってきたものだ。店に入るとすぐに店員が出てきた。無人ではなかったんだなと当たり前の事を思いながら小銭を支払い袋はいらないと店員に伝えた。
「あぁすみません大丈夫ですからあら き気にしないでくださあんあ」
ろれつが回ってなくて見事にふらふらだった。
「はいはい。気にしなくていいのはそっちですよ」
体を支えながら歩道の植え込みへと誘導する。キャップを外したペットボトルを渡すと素直に受け取って、口をゆすいでいる。
この口をゆすいでいる女性はぼくの住むアパートの部屋の右隣りに住んでいて、一見すると大学生のような風貌だけれど、どうやら会社勤めの社会人のようで、朝スーツで出て行くのを度々見かけた事があった。今も白いコートから紺のスーツが覗いている。まともに会話をしたのは僕が越してきた時に部屋の両隣りに挨拶に伺った時くらいで、見かけても会釈をする程度の間柄でしかなく、まさか二回目の接触が介抱になるとは思ってもみなかった。
するとお隣さんはへたり込んだままペットボトルをぼくへと差し出して言う。
「あ、ありがとうございました。ちょっと楽になりました」
「立てますか?肩貸すんで、アパートまで送ります」
「いえいえいえいえいえいえいええいえいえい」
手を振りながらそんな事は必要ないというアピールを必死にしているけれど、へたり込んでこちらも見ないでそんな事をされても到底大丈夫なようには見えない。
「だだだだいじょぶだいじょぶですー家すぐそこだからー」
「いえ、知ってますよ」
「んあ?」
お隣さんは素っ頓狂な声を出したあと、ガバっとこちらを向き直してまじまじとこちらを見つめてきた。数秒沈黙があって
「あぁー佐藤さんじゃないですかぁ!奇遇ですねぇ!びっくりしちゃいましたぁ!」
どうやらぼくを隣人であるという事に今まで気づいてなかったようだ。
「はい。奇遇ですね。立てますか?寒いので帰りましょう」
「……ちょっと立てないですねぇ。どうしましょう??」
「… … ほって帰っていいですか?」
「えぇーーーーー」
「嘘です」
「えぇーーーーー」




人を背負うという行為をいつ以来していないだろうと考えて、多分高校の体育の時が最後だという結論に達した。約十年ぶりに背負ったのは、酔っ払ったお隣さんだった。
小さい体つきの見た目そのままにお隣さんの体重は軽く、背負って歩くという事は思っていたよりも負担では無かった。
「おぶってもらうのひさしぶりだぁ」
お隣さんは先ほどからそんな事をうわ言のように繰り返しながら何故かえへえへと笑っている。
顔見知りにあって最後の緊張の糸が切れたのか、途端にへたれてふにゃふにゃになってしまった。いや、その前から充分へたれてはいたけれど。
しばらく歩くとアパートが見えてきた。四階建てのわりと新しいアパートだ。一階エントランスでオートロックを解除して、いつものようにエレベーター横の階段を使って二階へと上がる。六つ扉が並んでいて、階段の端から数えて四つ目が僕の部屋、お隣さんはその手前だ。廊下の電灯が二人分の影を作り、僕の足音だけが静かに響いる。その音に聴き入る間もなく、部屋の前にたどり着いた。
「はい。到着しましたよ。鍵無くしたとかいうオチは無いですよね」
「やだなぁちゃんとカバンの中のキーケースに入ってますよぉ」
「そうですか、じゃあ一旦下ろしますよ」
「えぇーーーーー」
「下ろさないと鍵が取れませんよ」
カバンは後ろ手で僕が持っていた。
「ちょっとカバンだけかしてくださーい」
そう言ってお隣さんは右手を下に下ろしたので、持っていたカバンをくっと右側にやると、お隣さんはカバンを受け取って、僕の目の前でがさごそとカバンをあさって水色のキーケースを取り出した。
「はい」
「はい?」
「あけてくださーい」
「僕が?」
「あなたが!……ていうか」
「ていうか?」
「吐きそう……」
「おい!お願いだからあとちょっと耐えろよ!間違っても背中で吐くなよ!」
「あい……」
 キーケースから鍵を選ぶ。幸い自分の鍵と同じタイプだったのですぐに選んで解錠することが出来た。
部屋に入って玄関と廊下。右手にコンロと小さなシンクがあって左手にトイレとバスルーム、奥に扉があってそこの奥には六畳半の部屋があるのだろう。ちょうど僕の部屋を左右反転させた間取りになっている。
ぼくの玄関とは逆側についているスイッチ盤を押して廊下の灯りをつけた。カチカチっと軽く点滅してから蛍光灯が光り、廊下の存在感がより明確なものになった。どうでもいいけれど、僕の部屋の廊下のよりも少し明るいような気がした。
「お邪魔します」
そう言いながら革靴を脱いで駆け足で短い廊下を進む。お隣さんの靴を脱がせようかと一瞬考えたけれど、優先すべきは靴では無く、トイレに駆け込む事だった。トイレのドアを明けて、お隣さん下ろしてスタンバイ。いつでも吐ける姿勢にする。
「よく耐えた……好きなだけ吐け」
「あい……」
そういうとそっと扉を閉めた。
一応最低限の役割は果たしたはずだ。介抱して家にまで連れてきた。ここで帰っても文句を言われる筋合いは無いだろう。
ただ、そうは思いながらもおもむろに冷蔵庫に手を伸ばした。
「色々失礼するよー」
拒否されなかったので肯定と受け取る。そもそも僕の声が届いてない可能性もあるけど、まぁ気にしないでおこう。ちょうどトイレの目の前にある冷蔵庫を明けて、ミネラルウォーターがあるか確認する。調味料やドレッシング類と一緒に扉側のポケットに二リットルのミネラルウォーターを見つけた。
冷蔵庫の上にはレンジが置いてあって、その横のシンクに洗って乾かしている食器類が置いてある。その中からグラスを取ってミネラルウォーターを注ぐ。
さっき使ったペットボトルの水がまだ三分の一ほど残っていたので、口をゆすぐのはそちらを使おう。
ふと一息ついて、眺めるでもなくぼんやりと廊下のを見渡していた。間取りが反転しているとはいえ、壁紙やシンク、扉や取っ手など基本的な部分や作りは自分が見慣れた部屋と同じなのに、明らかに自分の部屋とは違うと肌で感じられるこの感覚がどうにも気持ち悪い。
見慣れた風景と、他人の部屋の匂い、空気、明るさの違う蛍光灯、見知らぬ食器やタオル、自分の物とは違うメーカーの電子レンジや 冷蔵庫。そういう見慣れない風景が混ざり合って、どうにも違和感が拭えないし、なんというか、どうにも座りが悪い。
扉の閉じられた奥の六畳間は暗く、中を伺う事は出来なかった。そもそも、扉のガラスは磨りガラスになっているので、例え奥の部屋が明るくても扉を開けない限り中を伺うことはできない。

ふと腕時計に目をやると、お隣さんをトイレに放り込んで五分が経過していた。まぁ別段遅すぎるという時間でも無いけれど、どうにも酔いと格闘しているという雰囲気が皆無で、トイレから物音一つ聞こえてこなかった。たぶん、このまま放置していてもお隣さんが自発的にトイレから出てくるのは明日の朝になるだろう。
ノックをして、声をかける。それに対するレスポンスもやはり無い。ゆっくりとトイレのドアを開けると、やはりと言うべきか、便座を抱えてすやすやと眠るお隣さんの姿がそこにあった。便器の中に顔や手を突っ込んで無いだけまだ良かったと、無意味なポジティブ思考でぼんやりとお隣さんを眺める。一応吐くものは吐いたようだ。
「はいはい。ここは寝るところじゃないよーこのまま寝たら起きた時、よりヘコむ事になるよー」
声をかけながら体を揺らす。
「もう……ねむい……」
「眠いというか、すでに寝てるよ。はい、とりあえず口ゆすいで水を流そう」
「なんで……?」
「そうした方がきっといいよ」
「ねむい……」
「はいはい。これ終わったらぐっすり眠れるから」
「うー……」
「もうひと頑張り」
「がんばる……」
酔っ払っていても、わりと聞き分けがいいのがせめてもの救いかもしれない。赤子をあやすように声をかけて、赤子に飲み物を与えるようにペットボトルを口に近づける。
この状況になるとペットボトルを渡しただけではどうにもならない事は目に見えていた。
「はい、うがいしろよーちゃんと吐き出すんだぞー」
「あい……」
意外とスムーズに口をゆすぎ、三回ほどそれを繰り返した所でペットボトルの水が無くなった。
「口の中気持ち悪くない?」
「あい」
「じゃあちょっと待ってて靴脱がすから」
そう言って立ち上がって、トイレでへたり込んでいるお隣さんの足から低めのヒールを、パンストに包まれた足から剥ぎ取った。靴を玄関において、代わりにシンクに置いていたミネラルウォーターを注いだグラスを手にとって、トイレへと入る。するとお隣さんはなぜか今度はトイレの側面の壁にもたれかかって、三角座りの形で膝におでこを当ててうつむいている姿勢に変わっていた。
「大丈夫?」
「あたま……いたい…… ぐらぐら……する…… 」
「そうか、もうちょっとだから、すぐベッドだから」
「oh……」
「とりあえずこれ飲もう。次は吐き出したらだめだぞ」
「あい」
おでこから頭を離したお隣さんの口元に先ほどのペットボトルと同様にグラスを近づける。そして、お隣さんは先ほどの要領で、口に含んだ水をそのまま吐き出した。
「おい!」
「あい……?」
「吐き出しちゃった!」
「……間違えた……だけ……?」
「だけ?ってなんだ!この酔っ払いめ」
「つめたい……」
「どっちの意味で!?」
先ほどのと違って便器に向かってなかったので吐き出した水はすべてお腹へとぶちまけられた。ぼくに被害は無かったけど、お隣さんは当然の事ながらびしょびしょになっている。まぁ、酔っ払いを背中に乗せた時点で、背中でリバースは半ば覚悟していたので、ただの水を自分自身に吐き出したという事態はまだマシな部類かもしれない。とやはりなぜかポジティブ思考で状況を捉えた。
とりあえずトイレの壁にかかっていたタオルを手にとってお隣さんの上にかかった水分を簡単に拭き取る。幸いトイレにはマットなどが敷かれてなかったので、床の掃除は簡単そうだ。ただ、それは明日のお隣さんの仕事だ。
「もう寝ようか……」
「あい……」
「一人で、立てない、よねぇ?」
「おんぶ…… 」
「はいはい……」
グラスをシンクに置いて、閉じている扉を開ける。扉の左にスイッチがあり、明かりをつける。扉から縦に長く、長方形の形をした部屋の奥にはガラス戸があって、左の壁の中央に小さめの液晶テレビが置いてある。左奥に化粧台、手前に腰ほど高さの本棚がある。右奥にベッドと右側手前に姿見の鏡が配置されていた。真ん中には小さなコタツと座椅子。そしてコタツの上にはノートパソコンが置いてある。わりと物が多く、ぼくの部屋より幾分狭く感じられた。あのベッドにお隣さんを寝かせたら終わりだ。もう一踏ん張り。そう思いながらトイレに向かい直した。

そして僕はふと昔を思い出す。



「これは私専用なんです!だから先輩は絶対座っちゃだめですよ!」
「なんでさ。今、笠原が座ってないなら貸してくれてもいいじゃん」
「ダメです!ちゃんと先輩専用の座布団があるじゃないですか。座椅子に座ったら二人の仲もそれまでです!先輩ともお別れしなくちゃいけません」
「別れるほどのことなの!?」
「座椅子が原因で別れるの嫌でしょ?」
「嫌だね」
「だから座らないでくださいね」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はーい」
「間を伸ばさない!」
「教育ママか!」
「彼氏の一般常識を養うのも恋人の務めです」
「教育恋人……」
「なんか卑猥ですね。セクハラです」
「どこがだよ!!」
「まぁとりあえず論述の問題文教えてください。あの教授毎年使いまわしらしいので。このために年上と付き合っていると言っても過言じゃありません」
「さらりとひどい事を言ってる!」
「好きですよ。先輩」
「もう素直にその言葉を受け取れない!」
「ひどい……」
「どっちが!」



お隣さんをいわゆるお姫様抱っこの形で抱えて、ベッドに運んでいる最中、少し昔の事を思い出していた。大学生の頃に交際していた女性の事だ。その女性をお姫様抱っこした事は無い。なのに何故そんな事を思い出したのか、それはたぶん、部屋の、コタツの前にあった座椅子が昔の交際していた女性がお気に入りにしていた座椅子と同じものだったからだろう。
変なこだわりを持つ事が多かった彼女のこだわりの一つが、自分の座椅子に他の人を座らせないという事だった。結局、あの座椅子に座る事は無く、何度か彼女のいない隙に座る事はできたのだけれど、実行に移す事はなかった。
ぼくが就職してしばらくして、彼女とは別れてそれっきりで、それ以来、彼女の事ももちろん座椅子の事も思い出す事はすっかり無くなっていた。まさか何年も経って、こんな離れた場所で酔っぱらいの介抱をしながらその事を思い出すとは思いもしなかった。

「着替え……」
お隣さんの声でふと我に返った。どうやらぼんやりと思い出にふけっていたみたいだ。お隣さんはベッドに座ってもぼくを見上げていた。
「はい?」
「着替えさせて」
「はい?」
「寒い……」
「ああ……自分では……できない……よね?」
「うん」
「ですよねぇ……」
「うん」
ふと見るとベッドの足元に上下ねずみ色のザ・部屋着という感じのスウェットが置いてあった。さすがに躊躇ったけれど、乗りかかった船だと思って決心する。これはどちらかといえば介護だ。そう自分に言い聞かせた。
まずはコートとスーツのジャケットを脱がせて、壁にかかっていたハンガーにスーツをかけておく。ブラウスはそのままでいいかと思ったけれど、ここは一番水がかかっているので脱がせた方がいいだろう。
「これ……ボタン外しますよ……」
思わず敬語になってしまう。
「あい」
一番上までとまったボタンを上から順に外して行く。さすがに酔っ払い相手とは言え気まずい。
上から三つ目のボタンを外した時にお隣さんが声をかけてきた。
「これからセックスするみたいー」
「黙れ酔っ払い!」
「いやー襲わないでー」
「ゲロまみれの酔っ払いを襲う趣味は無い!」
「まみれてはないよ……」
「おーとりあえず黙ろうかー」
「あい……」



「終了……」
お隣さんを上下スウェットに着替えさせ、布団をかけて、思わずそんな言葉が漏れた。あの会話のあと、少し気が楽になって、作業のように着替えさせる事ができた。スカートを脱がす時、スカートのホックを外してベッドに寝転ばせて脱がした時はちょっとやばいなとも思ったけど、なぜかうーうー言いながらじたばたしている姿を見たら、何がやばいのかもわからなくなっていた。
僕はベッドの脇に座って一息ついていた。お隣さんは布団をかけたら静かになっていたので、もうすでに寝ているのかもしれない。
ようやくお役御免になったので、とっとと帰るかと思っていたけれど、一息ついたら急にどっと疲れが出てきたのか、動く気分ではなくなっていた。
僕も今日は飲んで帰ってきたので、全くのシラフと言うわけでは無い。すっかり酔いは冷めたと思ったけれど、実はまだ酔いは残っていたのかもしれない。
しばらくぼんやりしていると、ベッドの方から声がした。
「まぶしい……」
振り返るとお隣さんは目を開けて電灯を見上げていた。
「あぁ、ごめん。じゃあ電気消して、俺は帰るよ。戸締りできないけど、大丈夫だよね?」
「やだ……」
「え?」
「やだ」
「あぁ戸締り?どうしよう、じゃあ鍵預かって外から鍵閉めようか?明日にでも返しにくるし、それでいい?」
「いや」
「じゃあどうしたらいいの…… 」
「帰らないで下さい……」
「え」
「独りは嫌……」
気づくとお隣さんは僕のズボンの裾を握っていて、目には大粒の涙が溜まっていた。溜まった涙はほどなくして流れていく。涙を隠そうとしているのか、布団を目元まで上げているけれど、涙を隠すことも、止めることもできないまま、鼻をすすってただしゃくりあげる事しかお隣さんはできずにいた。
泣き上戸、とは違うのだという事はさすがに僕にも理解はできた。そもそもを考えた時、いい大人だ。何歳かは知らないけれど、少なくとも社会人で一人暮らしをしている女性だ。それが、自力では帰れないほどに酔いつぶれて、道端で倒れ込んでいたんだ。何かがあったのだ。お酒に頼らないと潰れてしまいそうな何かが。必死で逃げて、必死に戦った残りカスがきっと今の状況なのだろう。そんな人が一人は嫌だと言っている。僕がしなければならない事は一つだ。それが仮に引っ越してきてから、ずっと気になっていた女性で無かったとしても、僕はきっと同じ事をしていただろう。
「わかりました。じゃあ今日はここに泊まらせて下さい」
コートとスーツのジャケットを脱ぎながら僕が言うと、お隣さんは大きく首を立てに振った。ズボンの裾に握られた手をそっと解いて僕は言う。シラフじゃとても言えないような恥ずかしいセリフだ。そう、僕も相当酔っている。とりあえず、今日の所はそういう事にしておこう。
「手を握りましょう。きっと、独りじゃないって思えますよ」
お隣さんの手が強く握られる。
あぁそうだと思って僕は続けた。
「一つ、確認してもいいですか?」
「……はい」
「ここの座椅子、座っても大丈夫?」
一瞬間があってお隣さんが鼻声で答える
「はい。でも、なんでそんな事聞くんですか?」
「一応、ね」

手を握ったまま座椅子に腰を下ろす。ひんやりとしたコタツに足を入れて、横にあったコタツのスイッチを押して電源を入れる。コタツの上にテレビのリモコンと並んで電灯のリモコンが置いてある。これは僕の部屋と同じタイプのリモコンだ。
「じゃあ、おやすみ」
そう言って電灯のリモコンを上に掲げて消灯のボタンを押すと、部屋は色を失い、部屋の静寂が増したような気がした。コタツはまだ冷たい。目を閉じると、握った手だけが熱持っているように暖かい。
 想像していたよりもずっと普通なすわり心地の座椅子にぐっと体重を預けながら、あの時付き合っていた彼女は今でも誰かにへんてこなこだわりを披露しているのだろうか、なんて考えて、少しおかしな気分になる。

 僕はもう一度、握っている手を少し強く握りしめて、今度はそっと眠りについた。



エピローグ

 目覚めは良くなかった。コタツに入って座椅子に座って寝ていたからか、喉の渇きと全身が固まったような体のダルさで目が覚めた。腕につけっぱなしになっていた時計を見ると午前の十時を回っている。ずいぶん寝てしまっていたようだ。それまで一度も起きずに座った態勢で寝ていたのか、そりゃ体も悲鳴をあげるはずだ。気づくと握っていた手は離れ、ベッドに人影は無かった。
 見回すと、閉じたドアの向こうになにやら人の気配がある。向こうもこっちが起きた事に気づいたのか、間もなくドアが開いた。その瞬間。
「ほんっとおおおおに、ごめんなさい!!!!」
 全力で謝られた。最悪、酔っていた時の記憶は無くてお隣さんが起きた瞬間不審者扱いされるかもしれないと覚悟していたので、それに比べれば今の状況は良い状況と言えるかもしれない。
 「あぁ……まずはおはようございます」
「あ、はい。おはようございます」
「もう平気?」
「はい。思ってたより平気みたいです……」
「夜のこと、覚えてる?」
「断片的に……なんですけど……」
「ほうほう」
「多大な迷惑をかけた上に泣きついたという事は……」
「だいたい合ってるね」
「本当にすみませんでした……」
「いやいや、気にしないでいいよ。本当に嫌だったら適当にほっぽり出して帰ってるし」
「ごめんなさい……あ、これ良かったら」
そう言って水の入ったグラスを渡された。
「ありがとう」
「いえ……」
しばらく沈黙が流れた。お互い何をどう言えばいいのかわからないと言った感じだ。沈黙を破ったのはお隣さんだった。
「あの、今日、仕事大丈夫……ですよね?」
「え?ああ、大丈夫大丈夫。基本的に土日祝休みだから」
「良かった。もしかしたら仕事だったらどうしようって……起こした方がいいかもとも思ったんですけど、何時に起こしていいのかもわからないのと、よく寝てたから……」
「まぁ仮に今日が仕事で、大遅刻してても、百パーセント俺の責任だから、どっちにしろ気にしないで」
「はい……あ、ちなみに今日これから予定なにかあります?」
「いや、特には」
「じゃあ良かったら昼食ご一緒しませんか?お詫びというとあれですけど……ごちそうしますから!」
「そんなに気にしないでいいのに……ただ、お昼一緒するのは大賛成。ちょうどお腹空いてたし、どっか行きましょうか。ていうか、そっちも予定ないんですか?」
「幸か不幸か、無いんですよねぇ……何かリクエストあったら言って下さい」
「んー。そうだ。お詫びという事なら、心当たりが一件」
「え?」
「最初に吐いてたあれ、実は正確にはコンビニの前じゃないんですよね。コンビニの横の店舗の入り口のど真ん前なんですよ……」
「うわ……それはなんというか……店の方にお詫びしないとですね…」
「まぁでも素直に謝りに行っても、相手も困るだろうし」
「はい……」
「ここは一つ売上に貢献して謝罪に変えさせていただきましょう。前から行ってみたかったんですよねあそこ」
「わかりました!そうしましょう。そういえばコンビニの横って何のお店でしたっけ……」
「えー覚えてない?俺よりこの街長いのにー」
「うーん。あの辺ってほとんど昼に通らないから……あっ思い出した!」
「うん」

「「鰻屋さん」」


ふと、こんな日に鰻屋なんて開いているのかという疑問が浮かんだ。でも、それはすでに大きな問題では無いのかもしれない。二人でどこかに行けばきっと楽しい。男女二人で出かけるのにこれほどうってつけの日はないのだから。
三連休の最初を休日出勤にした部長と、飲み会に誘ってきた先輩に、都合よく最大限の感謝をしながら、僕はコンビニで聞いたあの曲を口ずさむ。


ジングルベルジングルベル鈴が鳴る今日は楽しいクリスマス。


                                          終

月明かり

 私は月を見上げた。
 今日は満月だ。光が満ち満ちていて、私が居るような薄汚い路地にも優しい明かりが煌々と降り注いでいる。
 月の模様はウサギや、女の人や、カニや、色々なものに見えるらしい。だけど、私にはどれにも見えなかった。
 ただ暗くて、真っ黒で、闇が広がっていて、まるで月が病魔に少しずつ侵食されているようだと思った。
 そして、いずれ月は恐ろしい真っ黒な球体になって落ちてくる。私を、みんなを、世界の全てを、飲み込んでしまう。そんな気がする。
 怖くなった私は、月の輪郭にそって、月を受け止めるようにそっと両手を翳す。月の光が、私の小さな手の中に押し込められて、より一層輝きを増したように感じる。
 でも、月が落ちてきても、私はきっと受け止められない。こんなちっぽけで、弱くて、汚い、私なんかじゃ。私はうなだれながら手を下ろし、黒ずんだ服を強く掴んだ。
 美しくなりたい。
 あの月が落ちてきても、それを優しく抱きとめて、全ての苦しみを失くしてあげられるような。 綺麗で、清らかな、ただただ真っ白の月に癒してあげられるような。
 そう、強く願った。何かを願うのは初めてじゃないかと思うほどに。
 心がこんなに熱いのは、月のせいだ。太陽と違って、きっと月は心の中をあたためてくれるんだ。

 私は俯いていた顔をぐっと上げて、しっかり月を見据えながら、右手の小指を翳した。
 ――約束。
 必ず私が助けてあげる。だから、それまで待っていて。私を、見守っていて。あなたを抱きしめられるくらい美しくなれる、その日まで。
 私は月に背を向けて、路地を抜け出すべく走りだす。落ちていた空き缶を蹴り飛ばす。もう怖くなかった。
 冴え渡った月の光が、全てを包んでいる。