音信

 携帯は鳴る。
 細長い横枠の電子窓が華やげに光って、メールが来たのを私に教える。暗い部屋の中で、それは夜の遊園地の観覧車のように光る。
 そこにはメールの送り主の名前。
 私の好きな人の名前。私と彼が繋がっていることを示す、二人だけの音信。
 うっとりしながらそれを眺めていると、着信音に設定したオルゴール音が終わりそうになったので、慌てて携帯電話を開いた。メールが届いてから携帯を開くその間、わずか四十五秒。その間に、曲が鳴り終わる前に開かないといけないというのは私が自分に課しているルールだった。もし放っておいたら、だんだんと彼の想いが褪せて私に届かないような気がするのだ。彼が私に送信してくれたこの瞬間、私は着信音が響く束の間の幸せに浸り、彼の想いを一滴も溢さないようにと二つ折りの携帯を開く。
 開くとそこには『今度は沙織も一緒に遊ぼうよ』という文面と共に、彼と数人の男女のプリクラが貼りつけられていた。
 ぷつり。胸の片隅でか細い虫の命が一つ消えてなくなった。
 私は滲んだ涙を必死に堪えながら、カチャカチャと小さな文字盤を健気に打つ。
「そうだね。今日は忙しかったから、今度はきっと行くよ!」おまけに可愛い絵文字も付けて。
 ああ、いじらしい私。なんていじらしいんだろう。明るい液晶画面だけを暗い部屋で光らせて、一人なのに取り繕ってる。嘘をついてまで行かなかったのに。今日だって何もせずに家にいたのに。でも彼といた方が家にいるより寂しくなかっただろうかというと、そんなことはきっとないって私自身分かってる。送信済みのメールを見たら最後に付けたハートマークが無情にぴかぴか光っている。
 でもきっと嬉しいはずなんだ。
 濡れてくる睫毛を指でなぞるように擦って、布団を身体に寄せる。ベッドカバーが湿る。
 そう。私は嬉しいの。だって彼からメールが来るんだもの。ずっと好きだった彼が、私のためにこうやって心の神経を使って、指の筋肉を使ってメールを送ってくれるんだもの。世界で一番幸福なはずよ、私。きっと私より恵まれていない人なんてたくさんいる。彼のことを想っても振りかえってもらえない、名前だって覚えてもらえない人だっているはず。ほら、それに比べたら私なんてましじゃない。幸せじゃない、恵まれてるじゃない。ああ、なのに何でこんな気持ちなんだろう。何でさっきは、画面を見るまでは、嬉しい気持ちで胸がいっぱいだったのに、今じゃ唇が震えてるんだろ。
 彼が聡美を好きなのは薄々感じていたことだけど、やっぱり現実を突きつけられるとキツいものがあった。
 プリクラで、彼の隣にいるのは聡美だ。肩と肩が親しげにくっついてる。二本指を立てて、歯を見せている。正直で明るくて、運動も得意な聡美。陸上部の彼が同じ部活で練習を共にしている聡美を好きになるのは当然のことだ。ちっともおかしくない。実際、彼女は良い子だ。私に声をかけてくれたのも聡美が最初だった。今だって覚えてるよ。学年が新しくなってクラスが変わってさ、なかなか話しかけるきっかけが掴めなくて一人でいた私に話しかけてくれた時はすごく嬉しかった。嬉しくってその夜は泣いちゃったのも覚えてる。今みたいに布団をかぶりながら嬉しさに悶えたんだよ。
 だから私は聡美を責めることも妬むこともできない。恨むことすらできないんだ。ただただ彼と彼女が楽しそうにしているのを祝福するしかない。もうすぐ付き合うんだろうね。お似合いだよ。私も彼が好きだったけどね。おめでとう。本当におめでとう。
 もう悲しいことは忘れて眠りにつこうと思って布団を頭からかぶっても、胸を締めつける力は弱まりを見せなかった。視界は真っ暗になっても目の前から楽しそうな彼が消えることはなかった。仲間に囲まれて楽しそうな彼。むしろ逆効果。もう何回もやってるのに全く覚えない、私は馬鹿だ。視界を失えば意識の彼は余計にその輪郭を際立たせる。その存在は大きくなる。なんで私の思い出す彼はいつも笑っているのだろう。控え目な笑みを頬に湛えているんだろう。そんな顔を見ると私をもっと気遣ってよ、という傍若無人な気持ちが芽を出してくる。彼のガラス細工のような繊細な瞳は、うずたかく積もった嘘とかごまかしとかの中から私のことを見つけてくれそうなのに。ああ、芽がむくむくと育ってくる。私に気づいてよ。寂しがっているんだからそばにいてよ。私が纏ってる嘘はこんなに淡くて薄いのに、なんでそんなに鈍感なの。こんな薄いベールなんて切り裂いて裸の私をさらってよ。――でも知ってるよ、私。君は少しも私を好きじゃないんでしょ。だって聡美が好きなんだものね。私はそういう君が嫌だよ、憎いよ。嫌っちゃうよ? ――痛い、痛い。胸をずきずき突き刺しながらも芽の成長は止まらない。ああ、分かった。君はもう私に関心すらないんだ。嫌いでも好きでもなくて、もう君の中に私は要らないんだ。居場所はないんでしょ。私が消えても何も言ってくれないんでしょ。どうせ私なんて死んでもいいんでしょ。
息が苦しくなって、顔を布団の中から外に出すと新鮮な空気が身体に取り込まれた。夜の部屋の沈殿した空気。窓の方を見ると、白いレースカーテン越しに欠けた月が目に入った。
 部屋にかけられたディズニーの時計では長い針が十一時を示している。もう寝なきゃ。明日だって学校があるのに。明日になれば彼とも教室で会えるんだから。会ったら、こんな気持ちも溶けてほわほわした自分になれるんだから。冗談っぽく言ってもそれが現実。
私は立ち上がって箪笥の上にある睡眠導入薬を水を使わずに三錠飲んだ。薄い苦みが舌の上に残った。
私の部屋はシンプルで飾り気がない。質素で何のおもしろみもない部屋だ。ベッドに上がって枕の上にある窓を開けると、冷たい外気が頬に当たった。紛れもない冬の空気だ。疎らに浮かぶ雲の隙間に小さな月がこちらを見下ろしている。こうやって空を見上げていると自分の矮小さをひしひしと感じる。こんなに空も地上も広がっているのにたった一人の人間から離れられないなんて。私の心は狭くてじめじめしてて、なんだか誰も乗ってこないエレベーターみたいだ。どこにも行けないけど、誰も来ないからどこにだって帰れない。
こういう時は、どうしたって寝付けないから薬が効いてくるまで外を見るのだ。マンションの十二階に位置するここからは地平線まで私たちの町が見渡せる。ここからじゃ遠くに見える遊園地の観覧車には今日行った彼と聡美も一緒に乗ったのかもしれない。
ベッドの上の携帯電話が鳴った。
優しい旋律が室内に響く。私のお気に入りのメロディ。二人を繋げる音信。私の手首に絡まって外せない赤い糸。
彼からの返信だった。私が返してからの時間、六十分。
怖々と画面を見ると、そこには
『そうだね。楽しみにしてる』
 え、これだけ? もしかしたら寝てるかもしれないこんな時間にメールして来てこれだけっておかしくない? 不条理じゃない? 私の気持ちとか考えてんの?
 でも。ちょっと待てよ、と胸の中から声がする。
 彼は元々こういう性格だ。控え目で自己主張も激しくない、程度をわきまえた人間だ。私の気が立っているだけだ。落ち着け私。そうだ。私はそうやっていつも失敗してきた。焦ると思考が飛んでしまう。結果を求め過ぎてしまう。悪い癖だ。邪魔な性格だ。そのせいで仲が良かった友達からの手紙も千切ってしまったし、いくつもの機会を自分から投げ捨ててしまってきた。今だって悪いのは私だ、彼じゃない。彼は何にもしてないし、むしろ私を気遣ってくれてるじゃないか。何を勘違いしてるんだ。私も聡美も彼もみんな自由をもっていて、生きている。みんなはみんな。他人は他人で、私ではない。悪いも良いもそこにはない。世界の常識で、私も当然知ってることだ。
 私がメールを返すと、彼からはすぐに返信が来た。
『今日は楽しかった? 聡美とはたくさん喋れた?』
『楽しかったよ。沙織も来ればよかったのに。遊園地なんて久しぶりに行ったなぁ、何年振りだろ。聡美とはいつもグラウンドで喋ってるから、今更って感じがする』
『観覧車とか私も乗ってみたかったよ。光る町を見てみたかった』
『観覧車乗ったよ。学校も小さく見えて気持ちよかった』
『あれって二人乗りだよね、確か』
『そうだった』
『聡美と乗ったの?』
 それまでより長い時間が流れて、私はまた睡眠導入薬を三錠飲み込んだ。苦い。もう三錠。苦い。ついでに一錠を飲み込まずに歯を立てて噛み砕くと口いっぱいに何倍もの苦味が拡がった。こんな苦味くらい我慢してやる。
 運命の赤い糸ならぬ微かな音信が私に告げる。
『別にいいんだけど、何で聡美のことばっか訊いてくんの? 俺、聡美のことを何か言ってたっけ?』
 言ってない。何にも。だけど見てれば分かるよ。誰にだって。誰にだって普通に分かる。
 返信を送ると、少し目眩がしてきたので窓の桟に腕を置いて寄り掛かった。ああ、やっと眠れそうだ。もうみんなどうでもいいや。本当にどうでもいい……。
 私はそんなことを思いながらも全部を知っていた。
 一人になると。いや違う。いつでも、だな。学校に行ってて教室で話していても、休日で家から出ない時でもいつでもそうだ。いつだって魔が差す時があるんだ。不意にね。そいつはスッと入って心の弱いところをザクリと抉る。全く参っちゃうけれどそうなんだ。それに傷をつけられると私はいてもたってもいられなくなってしまう。誰にでもいいからこの切り傷を見せつけたくなる。そこら辺の野良猫に舐めてもらうんでも良いんだろうけど、そこはやっぱ好きな人に舐めてもらいたい。私の傷口から滴る鮮血を痕が残らないくらい舐め取って欲しい。おいしそうにでもまずそうにでもいいから、とにかく全部。吸い尽くして欲しい。ああ、それかグチャグチャにしてもらうのもいいな。抉られて血が滴る傷を好きな人にもっと開いてもらうの。びりり。彼の好きな形にして欲しい。それはすごく痛そうだ。どっちでもいい。でも、絶対見て欲しいんだ。私の形を、私を。救わなくていいから、見逃さないで欲しい。そばにいて欲しい。寂しいよ。嫌われてもいいから。一人は嫌なんだ。暗いのは嫌だよ。孤独なのは苦しい。冷たいのは嫌だよ。苦しいのも嫌だ。自分勝手でも、それでも。私は。ああ冷たい。もう凍えそうなんだ……。
 十二月の夜に吹き荒ぶ風はやたらと冷たく、私は意識もおぼろに窓を閉めてベッドへパタンと身体を倒した。携帯電話の電子窓がメールの着信を知らせている。私への返信。彼からの音信。
『ごめん、私が見ている世界はあまりにも小さくて』
『分かってる。沙織。暖かくして眠りなよ』
 うん、そうする。私は凍えた両手で毛布を首元までしっかり手繰り寄せた。温もりが身体を包む。分かってくれてるって。
 溶けそうな意識でもよく分かる。凍えそうな時でも忘れない。私が一人になった時に必要なのがこの音信なんだってこと。音信は現実に押し潰されるほどに微弱で儚い。けど、私が現実に壊されそうになった時に繋いでくれるのはこの音信だけなんだ。私がいつでも待っているのはこの音信しかない。私に必要なのは友達でも恋人でもなくて、この手首から外せない真っ赤な糸線。
 私が送った音信が、次の瞬間には返って来る。
 音信はいつだって交錯する。
 私と彼が繋がる瞬間。
 目には見えない赤い糸。
 私と彼はそこにいる。
 いつだって。どこだって。
『おやすみ』
『おやすみ』